臧霸(そうは)

【姓名】 臧霸(そうは) 【あざな】 宣高(せんこう)

【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)華県(かけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第043話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・臧霸伝』あり。

親分肌の猛将。良成威侯(りょうせいのいこう)

父は臧戒(そうかい)だが、母は不詳。息子の臧艾(そうがい)は跡継ぎで、臧舜(そうしゅん)も同じく息子。ほかにも多くの息子がいたことがうかがえる。

臧戒は県の「獄掾(ごくえん)」を務めていたが、太守(たいしゅ)が法を盾にして勝手に人を殺そうとするのを聞き入れなかった。これにひどく腹を立てた太守は、臧戒を逮捕し役所へ連行させる。

このとき護送にあたる者が100余人いたが、18歳の臧霸は数十人の食客を引き連れ、費西山(ひせいざん)で父の身を奪い返す。そのまま父とともに東海(とうかい)へ亡命したが、この事件のため臧霸の勇敢さは聞こえ渡った

「費西山」という山があったのか、「費県の西にあった山」という意味なのか、ここはイマイチわからず。

184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると、臧霸は陶謙(とうけん)に従って討伐にあたり、「騎都尉(きとい)」に任ぜられる。

そして徐州(じょしゅう)で兵を駆り集め、孫観(そんかん)・呉敦(ごとん)・尹礼(いんれい)らから首領に推され、開陽(かいよう)に駐屯した。

194年、曹操(そうそう)が呂布(りょふ)討伐に乗り出すと、臧霸らは兵をひきいて呂布を助ける。

198年、呂布が下邳(かひ)で処刑された後、臧霸らは身を隠した。曹操は懸賞金を出し臧霸を捕らえたものの、会ってみて気に入る。そこで彼に命じ、呉敦・尹礼・孫観、および孫観の兄の孫康(そんこう)らを招かせたところ、みな出頭してきた。

曹操は臧霸を「琅邪国相(ろうやこくのしょう)」に任じたうえ、呉敦を「利城太守(りじょうのたいしゅ)」に、尹礼を「東莞太守(とうかんのたいしゅ)」に、孫観を「北海太守(ほっかいのたいしゅ)」に、孫康を「城陽太守(じょうようのたいしゅ)」に、それぞれ任じ、青州(せいしゅう)と徐州の統治を臧霸に委ねる。

翌199年、曹操は袁紹(えんしょう)との間に戦端を開いたが、しばしば臧霸が精兵をひきいて青州の鎮定に赴く。そのため曹操は袁紹との戦いに専念することができ、東方を気にかけずに済んだ。

205年、曹操が南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を討ち破ると、臧霸は祝賀に集った機会に、自分の子弟や旧知の諸将の家族を鄴(ぎょう)へ移住させたいと願い出る。

のち東方の州で騒動が起こると、臧霸らは道義を守って暴虐な者たちを討伐し、すっかり海岱(かいたい。青州)を平定した。その功は大きく、みな「列侯(れっこう)」に封ぜられる。臧霸も「都亭侯(とていこう)」に封ぜられ「威虜将軍(いりょしょうぐん)」の称号を加えられた。

翌206年、臧霸は于禁(うきん)とともに昌豨(しょうき。昌霸〈しょうは〉)を討ち、夏侯淵(かこうえん)とともに黄巾の残党の徐和(じょか)を討つ。功によって「徐州刺史(じょしゅうのしし)」に昇進。

翌207年、張遼(ちょうりょう)が陳蘭(ちんらん)を討伐した際、臧霸は別軍として皖(かん)まで行き、孫権(そんけん)配下の韓当(かんとう)と戦う。臧霸は韓当軍を逢龍(ほうりょう)と夾石(きょうせき)で撃破すると、引き返し舒(しょ)に駐屯した。

孫権は数万人を船で舒口へ送り込み、兵を分けて陳蘭を救い出そうとしたが、臧霸軍が舒にいると聞き退却。臧霸は夜のうちから追いかけ、明け方までに100余里(り)を進み、敵を待ち受けて挟撃した。

孫権軍は追い詰められて船に乗ることができず、多くの者が水に入る。陳蘭を助けることもできず、彼らは張遼に撃破された。

217年、曹操の孫権討伐に付き従い濡須口(じゅしゅこう)まで進んだ際、臧霸は張遼とともに先鋒を務めて大雨に遭う。本軍が引き返した後、水位が上がり敵船が近づいてくる。張遼はみなの動揺を見て引き揚げようとした。

しかし、ここで臧霸が制止して言う。

「殿は急な事態への対処に明るい方です。われわれをお見捨てにはならないでしょう」

その翌日、やはり曹操から命令が届き、臧霸らは無事に帰還することができた。

曹操は張遼から話を聞くと、臧霸の判断を褒め、「揚威将軍(よういしょうぐん)」に任じて「節(せつ。権限を示すしるし)」を授ける。

ほどなく孫権が降伏を願い出たため曹操は帰還したが、臧霸は居巣(きょそう)にとどまり、夏侯惇(かこうとん)らとともにその地に駐屯した。

220年2月、曹丕(そうひ)が「魏王(ぎおう)」を継ぐと、臧霸は「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)」に昇進し「都督青州諸軍事(ととくせいしゅうしょぐんじ)」を兼ねる。「武安郷侯(ぶあんきょうこう)」に爵位も進んだ。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、さらに臧霸は「開陽侯」に爵位が進み、次いで「良成侯」に移封された。

222年、曹休(そうきゅう)とともに、洞浦(どうほ)で孫権配下の呂範(りょはん)を撃破する。

224年?、中央へ召し還されて「執金吾(しつきんご)」となり、「特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)」の位を授かる。軍事に関する事件が起こるたび、いつも臧霸は曹丕から下問を受けたという。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと500戸を加増され、以前と合わせ封邑(ほうゆう)は3500戸となる。のち臧霸は死去(時期は不明)して「威侯」と諡(おくりな)され、息子の臧艾が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝に以下のような記事がありました。

曹操が兗州(えんしゅう)にいたとき(194年ごろ)、徐翕(じょきゅう)と毛暉(もうき)を「将軍」としたが、兗州が乱れるとふたりとも背いた。やがて兗州は平定され、ふたりは臧霸を頼る。曹操は劉備(りゅうび)を遣り、臧霸にふたりの首を送るよう伝えさせた。

196年、劉備は小沛(しょうはい)で呂布に敗れ、曹操のもとに身を寄せていた。

臧霸は命令に背く気がないとはしながらも、「王者や覇者となる君主には道義を述べてもよい」というとして、劉備に彼らのため弁明を頼む。この話を聞いた曹操は感心し、徐翕と毛暉をいずれも「郡守(太守)」に任じた。

そして、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、臧霸とその仲間たちにはそれぞれ別名があったそうで、臧霸は「奴寇(どこう)」、孫観は「嬰子(えいし)」、呉敦は「黯奴(あんど)」、尹礼は「盧児(ろじ)」と言ったのだとか。これってあだ名なのでしょうね。

また、同じく『魏略』には以下のようにありました。

219年、臧霸は別軍を洛(らく)に置いていたが、翌220年、たまたま曹操が崩じた。すると臧霸の配下や青州兵は、これから天下が乱れると考え、みな陣太鼓を鳴らしながら勝手に去っていった。

192年、曹操は降伏した黄巾賊の30余万人から精鋭を選んで「青州兵」を組織し、彼らを寛大に扱っていた。

曹丕は「魏王」を継ぐと曹休を「都督青徐諸軍事」としたが、臧霸は曹休に言った。

「朝廷は私の言い分を採り上げてくださいません。もし歩騎1万を任せていただければ、長江の彼方を横行してみせるのですが……」

曹丕はこの発言を曹休から聞くと、先に臧霸の配下や青州兵が去ったことと、いま彼が盛んな意気を示していることに疑念を抱く。そこで東方へ巡幸した折、臧霸の来朝を利用して兵権を取り上げた。

これは臧霸を「執金吾」に任じた件を指しているようです。栄転というわけではなかったらしい。曹丕の巡幸についてはいくつかの記事が見えますが、おそらく224年のことではないかと思います。

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