李通(りとう)A ※あざなは文達(ぶんたつ)

【姓名】 李通(りとう) 【あざな】 文達(ぶんたつ)

【原籍】 江夏郡(こうかぐん)平春県(へいしゅんけん)

【生没】 168~209年(42歳)

【吉川】 第070話で初登場。
【演義】 第018回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・李通伝』あり。

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道義を守って曹操(そうそう)に尽くす、諡号(しごう)は剛侯(ごうこう)

父母ともに不詳。息子の李基(りき)は跡継ぎで、李緒(りしょ。こちらが兄)も同じく息子。

李通は男気があることで、長江(ちょうこう)から汝水(じょすい)一帯で有名だった。同郡の陳恭(ちんきょう)とともに朗陵(ろうりょう)で挙兵すると多くの者が集まる。

当時、周直(しゅうちょく)も2千余家の人々を集めており、李通や陳恭と表向き仲良くしていたが、内実はしっくりいかなかった。

李通は周直の殺害をもくろんだものの、陳恭の同意が得られない。そこで独断で計画を実行し、会合後の宴席で周直を殺す。

その騒動の中、李通は陳恭を引き連れ、周直配下の主だった者たちも殺害し、彼らに付き従っている人々を併合した。

後に陳恭の妻の弟である陳郃(ちんこう)が、陳恭を殺して軍勢を奪うと、李通は陳郃を攻め破り、その首を陳恭の墓に祭る。また、黄巾(こうきん)の大物の呉霸(ごは)を生け捕りにし、その配下を降す。

なぜ陳恭の妻の弟も陳姓なのかイマイチわからず。妻の義弟ということか?

194年、大飢饉(だいききん)に見舞われると、李通は家産を傾け救済に充て、兵たちと粗末な食べ物を分け合ったので、みな彼の言いつけに従う。このようなこともあり、各地の盗賊は彼の支配地域を侵犯しなかった。

196年、李通は軍勢を挙げて許(きょ)にいる曹操のもとへ赴く。そして曹操から振威中郎将(しんいちゅうろうしょう)に任ぜられ、汝南(じょなん)の西境に駐屯した。

翌197年、曹操が宛(えん)の張繡(ちょうしゅう)を討伐。いったんは降したものの、ほどなく不意を突かれて大敗する。

劉表(りゅうひょう)も兵を出して張繡を助けたため、曹操軍は混乱に陥る。そのとき李通が兵を連れて夜間に合流したので、曹操は再び戦えるようになった。

李通は先陣を務め、張繡軍を散々に討ち破る。功により裨将軍(ひしょうぐん)に昇進し建功侯(けんこうこう)に封ぜられた。

汝南郡から2県が分割されて陽安郡(ようあんぐん)が置かれると、李通は陽安都尉(ようあんとい。太守〈たいしゅ〉代行)に任ぜられる。

後に李通の妻の伯父が法を犯し、(陽安郡下の)朗陵県長の趙儼(ちょうげん)に逮捕され、死刑に処されることになった。当時は殺生の権限を牧守(太守)が握っていたので、李通の妻子は号泣して命乞いする。

だが、李通は言った。

「今は曹公(曹操)と力を合わせているのだ。道義から言って、私をもって公を廃すことなどできない」

そればかりか、趙儼が法を守って迎合しなかったことに感心し、彼と親交を結ぶ。

200年、曹操と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で対峙(たいじ)すると、袁紹は使者を遣って征南将軍(せいなんしょうぐん)に任ずると言い、劉表も密かに誘ったが、李通はいずれも拒絶した。

李通は陽安郡内にいる賊の瞿恭(くきょう)・江宮(こうきゅう)・沈成(しんせい)らを徹底的に攻め破り、彼らの首を曹操のもとへ送る。

こうして淮水(わいすい)および汝水一帯を平定すると、改めて都亭侯(とていこう)に封ぜられ、汝南太守に任ぜられた。

このころ賊の張赤(ちょうせき)ら5千余家が桃山(とうざん)に集まっていたが、これも李通が攻め破る。

208年、江陵(こうりょう)の曹仁(そうじん)が、赤壁(せきへき)の大勝に乗じた劉備(りゅうび)や孫権(そんけん)配下の周瑜(しゅうゆ)に包囲され、別に関羽(かんう)に北道を断ち切られる。

翌209年、李通が軍勢をひきいて攻撃し、馬を下りて逆茂木を引き抜き、敵の包囲陣へ突入。戦いながら前進を続け、ついに曹仁らを救出した。

ところが、李通は帰還の道中で病死。このとき42歳だったという。200戸が追贈され、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は400戸となり、息子の李基が跡を継いだ。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、李通に剛侯の諡号(しごう)を追贈する。

さらに詔(みことのり)を下し、李通が道義を重んじた態度をたたえ、跡を継いでいる李基を奉義中郎将(ほうぎちゅうろうしょう)に、その兄の李緒を平虜中郎将(へいりょちゅうろうしょう)に、それぞれ任じた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、李通は幼少時のあざなを「万億(ばんおく)」と言ったそうです。

李通は目先の利に釣られることなく、曹操への忠義を貫いた人物でした。

当初は勢いのあった袁紹から征南将軍にと誘われれば、深く考えない人ならあっさり鞍(くら)替えしそうなのに、この誘いをまったく問題にしませんでした。

官爵のほうは、まだまだ昇る余地があったと思います。まぁ、李通自身はそのようなものに執着しないのでしょうけど……。

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