李典(りてん)

【姓名】 李典(りてん) 【あざな】 曼成(まんせい)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)鉅野県(きょやけん)

【生没】 ?~?年(36歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・李典伝』あり。

武功のみならず、好学の長者(ちょうしゃ。徳のある人)ぶりをたたえられる

父母ともに不詳。息子の李禎(りてい)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。

李典の従父(おじ)の李乾(りけん)は勇ましい人物で、数千家の食客を集めて乗氏(じょうし)に住んでいた。

初平(しょへい)年間(190~193年)、李乾は軍勢をひきいて曹操(そうそう)に付き従い、192年には寿張(じゅちょう)で黄巾賊(こうきんぞく)を討ち破る。

翌193年、袁術(えんじゅつ)攻めや徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)討伐にも従軍した。

翌194年、呂布(りょふ)が乱を起こした際、李乾は曹操の命を受けて乗氏に帰り、諸県の慰撫(いぶ)にあたる。ところが、呂布配下で別駕(べつが)の薛蘭(せつらん)と治中(ちちゅう)の李封(りほう)から誘われ、これを聞き入れなかったため殺害された。

曹操は息子の李整(りせい。李典の従兄弟)に兵を引き継がせ、諸将とともに薛蘭と李封を攻めさせる。これを討ち破ると、李整は兗州(えんしゅう)の諸県の平定で功を立て、昇進を重ねて「青州刺史(せいしゅうのしし)」になった。

李整が亡くなると李典が「潁陰県令(えいいんけんのれい)」に転じ、「中郎将(ちゅうろうしょう)」として残された軍勢をひきいた。のち「離狐太守(りこのたいしゅ)」に昇進。

200年、曹操は官渡(かんと)で袁紹(えんしょう)と対峙(たいじ)したが、李典は一族と部下を引き連れ、穀物や絹を運び軍に供給する。曹操が勝利を収めると、李典は「裨将軍(ひしょうぐん)」に昇進し安民(あんみん)に駐屯。

203年、曹操が黎陽(れいよう)の袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)を攻めた際、李典は程イク(ていいく。日+立)とともに船による兵糧の輸送にあたった。

袁尚は魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)の高蕃(こうはん)に命じ、兵をひきいて黄河(こうが)のほとりに駐屯させ、水路を断ち切らせる。曹操は李典と程イクに、「もし船で通れなければ下船して陸路を使え」と命じていた。

だが李典は、高蕃配下の武装兵が少なく、水を頼みにだらけている様子を見ると、独断で速やかに攻撃すべきだと言い、程イクらの賛成を取り付ける。そこで北へ向かい黄河を渡り、高蕃を討ち破って水路を通じた。

この年?、劉表(りゅうひょう)が劉備(りゅうび)を遣わし北方への侵入を試み、これが葉(しょう)までやってくると、李典は夏侯惇(かこうとん)に付き従って防ぐ。

201年、汝南(じょなん)で曹操軍に敗れた後、劉備は劉表のもとに身を寄せていた。

ある朝、劉備が軍営を焼いて立ち去り、夏侯惇は諸軍をひきいて追撃しようとした。李典は伏兵が疑われると諫めたものの、夏侯惇は聞き入れず、于禁(うきん)とともに敵を追う。

彼は後にとどまって守りを固めたが、やはり夏侯惇らは伏兵に遭い苦戦に陥る。李典が救援に駆けつけると、劉備軍は散りぢりになって退却した。

翌204年、曹操の鄴(ぎょう)包囲に加わり、陥落に貢献。

206年、楽進(がくしん)とともに壺関(こかん)の高幹(こうかん)を包囲。次いで長広(ちょうこう)にいる海賊の管承(かんしょう)を攻め、いずれも撃破する。李典は「捕虜将軍(ほりょしょうぐん)」に昇進し「都亭侯(とていこう)」に封ぜられた。

このころ李典の一族や配下の3千余家は乗氏に住んでいたが、みな魏郡へ移住することを願い出る。こうして関係者1万3千余人が鄴へ移ると、曹操はこれを嘉(よみ)し、李典を「破虜将軍(はりょしょうぐん)」に昇進させた。

のち李典は張遼(ちょうりょう)や楽進とともに合肥(ごうひ)に駐屯。

215年、孫権(そんけん)ひきいる10万の大軍に合肥が包囲された際、張遼は曹操の命令に従い、城を出て戦おうと考える。ただ、張遼・李典・楽進の3人は普段から仲が良くなかったので、張遼はふたりが自分の方針を受け入れないことを心配した。

すると李典が言う。

「これは国家の大事。きみの計略を問題にしている場合ではない。個人的な恨みのために公の道義を忘れたりはせぬ」

そして軍勢をひきいて打って出て、張遼とともに孫権軍を大破した。功により100戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は300戸となる。

李典は36歳で亡くなり(時期は不明)、息子の李禎が跡を継いだ。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、合肥における李典の功績を思い起こし、李禎に100戸を加増。李典の別の息子を「関内侯(かんだいこう)」に封じ、封邑100戸を授けた。さらに李典には「愍侯(びんこう)」の諡号(しごう)を追贈した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、「李典は学問を好み、儒学の教養を尊び、諸将と功を争わなかった。優れた士大夫を敬い謙虚な態度を取ったので、軍中ではその長者ぶりをたたえた」ということです。

張遼や楽進とは馬が合いませんでしたが、「公の道義は忘れず」の心がけは立派。寿命に恵まれず、早世が惜しまれる人物でした。

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