トウ芝(とうし。登+阝)

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【姓名】 トウ芝(とうし。登+阝) 【あざな】 伯苗(はくびょう)

【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)新野県(しんやけん)

【生没】 ?~251年(?歳)

【吉川】 第204話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・トウ芝伝』あり。

諸葛亮(しょかつりょう)の期待に応え、呉(ご)との同盟関係を回復

父母ともに不詳。息子のトウ良(とうりょう)は跡継ぎ。

トウ芝はトウ禹(とうう。後漢〈ごかん〉創業の功臣)の後裔(こうえい)にあたる。

トウ芝はは後漢末に蜀へ入ったものの、有力者の知遇を得るには至らなかった。そのころ益州従事(えきしゅうじゅうじ)の張裕(ちょうゆう)がよく人相を見ると評判だったので、トウ芝は彼に会いに行く。

すると張裕は言った。

「きみは70歳を過ぎてから『大将軍(だいしょうぐん)』に昇り、侯(こう)に封ぜられるだろう」

のち巴西太守(はせいたいしゅ)の龐羲(ほうぎ)が士を好むと聞き、トウ芝は彼のもとへ身を寄せる。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降すと、トウ芝は郫県(ひけん)の邸閣(食糧貯蔵庫)の「督(とく)」に任ぜられた。

劉備が郫県に立ち寄った際、トウ芝と話をして高く評価し「郫県令(ひけんのれい)」に抜てき。やがて「広漢太守(こうかんのたいしゅ)」に昇進させる。

トウ芝は清潔かつ厳正な態度で政務に取り組み、それぞれの任地で治績を上げたため、中央へ召し還されて「尚書(しょうしょ)」となった。

223年、劉備が永安(えいあん)で崩ずると、トウ芝は丞相(じょうしょう)の諸葛亮から特に指名され、呉へ遣わされる。

ここでトウ芝は孫権(そんけん)の説得に成功し、翌224年、張温(ちょうおん)が答礼の使者として蜀へ遣わされたことで、両国の同盟関係が回復した。

227年、諸葛亮が漢中(かんちゅう)に進駐すると、トウ芝は「中監軍(ちゅうかんぐん)・揚武将軍(ようぶしょうぐん)」に任ぜられた。

234年、諸葛亮が陣没するとトウ芝は「前軍師(ぜんぐんし)・前将軍(ぜんしょうぐん)」に昇進し(名目上の)「兗州刺史(えんしゅうのしし)」を兼ね、「陽武亭侯(ようぶていこう)」に封ぜられる。そして、ほどなく「督江州(とくこうしゅう)」となった。

以前の使者ぶりを高く評価していた孫権は、たびたびトウ芝に近況を尋ねる手紙を遣り、併せて手厚い贈り物をしたという。

243年、トウ芝は任地にあって「車騎将軍(しゃきしょうぐん)」に昇進したあと「仮節(かせつ)」となる。

248年、涪陵国(ふうりょうこく)の者が都尉(とい)を殺害して背いたため、トウ芝が討伐に向かう。まもなく首謀者をさらし首にしたので住民は安堵(あんど)した。

251年、トウ芝は死去し、息子のトウ良が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、トウ芝は将軍の官位にあること20余年、賞罰をはっきりさせ、よく兵士をいたわったそうです。

自身の衣食は公的な支給に頼り、特に質素倹約を意識しない一方、己の利殖を図ろうともしませんでした。そのため妻子は飢えや寒さを免れず、トウ芝が亡くなったとき家に余財はなかったのだと。

また、トウ芝は豪気な性格で細かいことを気にせず、感情を飾らなかったので、士人たちとうまく付き合えなかったともありました。加えてトウ芝は当代の人物を尊敬することがあまりなかったものの、姜維(きょうい)の才能だけは高く評価していたといいます。

トウ芝の用兵に関する記事がなく、その辺りはよくわかりませんでしたが、劉備の没後に呉との衝突を避けられたことについては彼の働きが大きいですね。

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