【姓名】 蔣顕(しょうけん) 【あざな】 ?
【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん)湘郷県(しょうきょうけん)
【生没】 ?~264年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第118回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・蔣琬伝(しょうえんでん)』に付された「蔣顕伝」あり。
魏(ぎ)の鍾会(しょうかい)に評価されるも、成都(せいと)で反乱に巻き込まれて死す
父は蔣琬だが、母は不詳。蔣斌(しょうひん)は兄。
蔣顕は太子僕(たいしぼく)として劉璿(りゅうせん)に仕えた。
263年、魏の鍾会らが蜀へ進攻する。
この年、劉禅(りゅうぜん)が魏の鄧艾(とうがい)に降伏を申し入れると、兄の蔣斌は涪県(ふうけん)にいる鍾会のもとへ出頭し、友人の礼をもって遇された。
蔣顕も鍾会に才能や学識を評価されたが、翌264年、鍾会が成都で反乱を起こすと、蔣斌ともども混乱の中で兵士に殺害された。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
ただ『三国志』(蜀書・後主伝〈こうしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『蜀記(しょくき)』に、ひとつだけ気になる点がありました。
劉禅が降伏を申し入れた後、鄧艾の返書を受け取ると、太常(たいじょう)の張峻(ちょうしゅん)と益州別駕(えきしゅうべつが)の汝超(じょちょう)に指示を聞きに行かせています。
また別に、太僕(たいぼく)の蔣顕を遣って姜維(きょうい)に勅命を伝えさせ、尚書郎(しょうしょろう)の李虎(りこ)に官民の戸籍簿を(鄧艾に)届けさせたことも見えます。
ここでは蔣顕が太子僕ではなく太僕とあり、イマイチつかめませんでした。太僕は九卿(きゅうけい)で、皇太子府の太僕にあたる官職が太子僕ですからね。
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