諸葛恪(しょかつかく) ※あざなは元遜(げんそん)

【姓名】 諸葛恪(しょかつかく) 【あざな】 元遜(げんそん)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)陽都県(ようとけん)

【生没】 203~253年(51歳)

【吉川】 第291話で初登場。
【演義】 第098回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・諸葛恪伝』あり。

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早成の才人ながら、驕(おご)りが高じて自滅

父は諸葛瑾(しょかつきん)だが、母は不詳。諸葛喬(しょかつきょう)と諸葛融(しょかつゆう)は弟で、諸葛喬は叔父の諸葛亮(しょかつりょう)の養子になった。

諸葛綽(しょかつしゃく)・諸葛竦(しょかつしょう)・諸葛建(しょかつけん)という息子がいた。

諸葛恪は若いころから名が知られ、騎都尉(きとい)に任ぜられて、顧譚(こたん)・張休(ちょうきゅう)・陳表(ちんぴょう)とともに王太子の孫登(そんとう)に仕え、彼ら4人は「太子四友」と称された。

孫登が王太子に立てられたのは221年のこと。

後に諸葛恪は、太子中庶子(たいしちゅうしょし)から左輔都尉(さほとい)に転ずる。

234年、諸葛恪は強く希望して丹楊太守(たんようたいしゅ)となり、撫越将軍(ぶえつしょうぐん)として山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の討伐に向かう。

着任すると周辺の4郡(呉郡・会稽〈かいけい〉・新都〈しんと〉・鄱陽〈はよう〉)に通達を出し、それぞれ郡内の安全を確保して軍備を整えさせ、教化を受け入れた民をみな屯田地に集めた。

こうしたうえで部将を分遣し、奥まった険阻な地に兵士を置いたが、交戦は禁じて防御の陣を固めさせる。

やがて収穫期を迎えると、諸葛恪は兵士を送り込んで実った穀物を刈り入れ、後に何も残らないようにした。

山越は備蓄を食べ尽くして飢えたが、すでに収穫は横取りされ、もとの住民も屯田地に移されたので略奪する相手もおらず、続々と山を下りて帰順した。

諸葛恪は3年の間に4万人を超える兵士を帰順者から選抜し、うち1万人を手勢に加え、残りは部将たちに分属させた。一連の功により威北将軍(いほくしょうぐん)に任ぜられ、都郷侯(ときょうこう)に封ぜられた。

後に諸葛恪は願い出て軍勢を動かすと、廬江(ろこう)や皖口(かんこう)で屯田を行う一方、少人数の部隊をもって舒(じょ)を急襲し、その地に住む魏(ぎ)の民を連れ帰る。

さらに遠くまで斥候を遣り、寿春(じゅしゅん)の攻略を図ろうとしたが、これは孫権の許しが得られなかった。

243年、魏の司馬懿(しばい)が舒に攻め寄せた際、初め孫権は軍勢を出して対抗しようとしたものの、望気者(普通の人には見えない、王者の気などを見ることができる人物)から不利な見解が示される。

そのため諸葛恪は軍勢をひきいて皖から柴桑(さいそう)へ移り、司馬懿の攻撃を避けることになった。

246年、諸葛恪は大将軍(だいしょうぐん)・仮節(かせつ)に昇進して武昌(ぶしょう)に駐屯、前年(245年)に死去した陸遜(りくそん)に代わり、荊州(けいしゅう)の軍事を統括する。

251年、孫権が重い病にかかると、皇太子の孫亮(そんりょう)は9歳と幼かったため、諸葛恪が武昌から召し還されて太子太傅(たいしたいふ)を兼ねる。

翌252年4月、孫権が危篤に陥ると、諸葛恪・孫弘(そんこう)・滕胤(とういん)・呂拠(りょきょ)・孫峻(そんしゅん)の5人が枕頭(ちんとう)に呼ばれて後事を託された。

その翌日に孫権は崩じたが、諸葛恪と仲の悪かった孫弘は粛清を恐れ、孫権の訃報を伏せたうえ詔書を改ざんし、諸葛恪の排除をもくろむ。

だが、孫峻からこの動きを聞かされた諸葛恪は、相談があると言って孫弘を招き、その場で殺害。ようやく孫権の崩御(ほうぎょ)が公表され、呉は国を挙げて喪に服した。

この月のうちに孫亮が帝位を継ぐと、翌閏4月、さらに諸葛恪は太傅に任ぜられた。

諸葛恪は、官吏を取り締まる校官(こうかん)の制度を廃止し、未納の税を帳消しにして関税もなくした。みな恩沢にあずかり、喜ばない者はおらず、民は首を伸ばして諸葛恪の姿を見たがったという。

先の229年、孫権は武昌から建業(けんぎょう)へ遷都し、翌230年には東興(とうこう)に堤を築いて巣湖(そうこ)をせき止めた。

後に淮南(わいなん)へ進軍した際、その堤を破壊して船を入れたが、以後は改修せずに放置していた。

同年(252年)10月、諸葛恪は人数を集めて東興に大規模な堤を造り、左右の山地にふたつの城も築く。この両城に1千人ずつの兵士を置き、全端(ぜんたん)と留略(りゅうりゃく)に守備を命ずると、自身は軍勢をまとめて引き揚げた。

同年12月、魏の胡遵(こじゅん)や諸葛誕(しょかつたん)が7万の軍勢をひきい、両城を包囲して堤を破壊しようとしたため、諸葛恪は4万の軍勢をもって救援に駆けつける。

先鋒を務めた留賛(りゅうさん)・呂拠・唐咨(とうし)・丁奉(ていほう)といった将軍たちの活躍により、大勝を収めた呉軍は莫大(ばくだい)な鹵獲品(ろかくひん)とともに凱旋(がいせん)した。

この功により諸葛恪は陽都侯に爵位が進み、荊州牧(けいしゅうぼく)と揚州牧(ようしゅうぼく)を加官されたうえ、黄金100斤と馬200頭、絹と布を1万匹ずつ賜った。

翌253年春、昨年の大勝に慢心した諸葛恪は、再び軍勢を動かしたいと願い出る。

重臣たちは兵士の疲労を考慮して諫めたが、諸葛恪は再出兵の意義を説明する論を著し、皆の反対を抑えた。

そして州郡に大動員を発令して20万の大軍をそろえたが、人々の間で騒動が起こり、諸葛恪の求心力は一気に衰える。

同年4月、出兵を強行した諸葛恪は魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲するも、なかなか陥せない。そのうち軍中で疫病が流行し、得るところなく撤退に追い込まれた。

これで諸葛恪は完全に声望を失い、彼に対する怨嗟(えんさ)の声も高まっていった。

同年8月、諸葛恪が敗軍をひきいて帰還する。

諸葛恪は、すぐさま中書令(ちゅうしょれい)の孫嘿(そんもく)を呼びつけて八つ当たりぎみに叱責したり、遠征中に実施された人事のやり直しを命じたりした。

また、自分の威信を保とうとして多くの者の罪を責め立てたので、彼の前に出る者はみな息を潜めた。

さらに諸葛恪は、宮中の宿衛にあたる者を自分と親しい者に入れ替えたうえ、新たに青州(せいしゅう)や徐州(じょしゅう)への出兵をもくろむ。

武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫峻は人々の不満が高まっている状況を見て、この機会に諸葛恪を除こうと考える。

そこで孫亮と相談して一計を案ずると、同年10月、宮中で催された宴席で諸葛恪を誅殺した。

諸葛恪の遺体は建業の南の石子岡(せきしこう)に投げ捨てられたが、ほどなく臧均(そうきん)の上表が容れられ、もともと諸葛恪に仕えていた者たちの手によって収容され、改めて埋葬されたという。

管理人「かぶらがわ」より

父の諸葛瑾は誠実で思慮深い人でしたが、その息子である諸葛恪には才能をひけらかすようなところが目立ち、まったく他人の意見を聴かずに自滅してしまいました。

ただ、253年の再出兵の意義を説明する論では目を見張るような見解も語られており、諸葛恪の実力の一端がうかがえます。

例えば、魏の人口が年々増加していることに触れ、このままなら10年で人口は倍になると予想したうえ、対する呉のほうは(山越などの)強兵を生み出す力が尽き果ててしまうと思われるから、現有の兵力をもって魏と決着をつけるしかないと述べています。

速やかに行動を起こさず、呉の兵士を老いるに任せておけば、10年ほどで兵力は半減し、一方で魏の兵士が倍になれば、もはや手の打ちようがないとも見ていました。

諸葛恪は決して口先だけの人ではなかったようです。彼の見立ては、蜀(しょく)と魏を比較した際にも通ずるものがあるでしょう。

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