劉繇(りゅうよう)

【姓名】 劉繇(りゅうよう) 【あざな】 正礼(せいれい)

【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)牟平県(ぼうへいけん)

【生没】 154~195年(42歳)

【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第011回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・劉繇伝』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

名門の看板を生かせぬまま埋没

父は劉輿(りゅうよ。一名「劉方〈りゅうほう〉」)だが、母は不詳。劉岱(りゅうたい)は兄。息子の劉基(りゅうき)は跡継ぎで、劉鑠(りゅうしゃく)と劉尚(りゅうしょう)も同じく息子。

劉繇は前漢(ぜんかん)の斉孝王(せいのこうおう。高祖〈こうそ〉の孫の劉将閭〈りゅうしょうりょ〉。父は斉悼恵王〈せいのとうけいおう〉こと劉肥〈りゅうひ〉)の後裔(こうえい)にあたる。

斉孝王の末息子(牟平共侯〈ぼうへいのきょうこう〉こと劉渫〈りゅうせつ〉か?)が牟平侯に封ぜられ、その子孫が代々この地に住んだ。

劉繇が19歳(172年?)のとき、従父(おじ)の劉韙(りゅうい)が賊徒の人質となる。劉繇は劉韙を助け出すことに成功し、このことから名が広まった。

やがて孝廉(こうれん)に推挙されて郎中(ろうちゅう)任ぜられ、梁国(りょうこく)の下邑県長(かゆうけんのちょう)に転ずる。

しかし、当時の梁国相(りょうこくのしょう)が、劉繇が帝族であることを利用しようとするとすぐに(劉繇は)官職を捨てて立ち去った。その後、青州(せいしゅう)の役所から招かれ済南国(せいなんこく)の行政監察にあたった。

このとき済南国相は中常侍(ちゅうじょうじ)の息子で、賄賂(わいろ)をむさぼり法をないがしろにしていた。そこで劉繇は上奏し、彼を罷免に追い込んだ。

陶丘洪(とうきゅうこう)が劉繇を茂才(もさい)に推挙するよう青州刺史(せいしゅうのしし)に勧めた。この前年には兄の劉岱が同じく推挙されており、陶丘洪はそれほど劉氏兄弟を高く評価していた。

ちょうどこのころ劉繇は司空掾(しくうのえん)として招かれ、侍御史(じぎょし)の任に就けたいという話があったものの応じなかった。

戦乱を避け淮水(わいすい)流域にいたとき、劉繇は詔(みことのり)により揚州刺史(ようしゅうのしし)に任ぜられた。

ただ、このとき(193年ごろ)袁術(えんじゅつ)が淮南(わいなん)にいたことから、劉繇は彼を恐れ憚(はばか)り、揚州の州治の寿春(じゅしゅん)へ行かなかった。

そこで劉繇は南へ出て長江(ちょうこう)を渡ろうと考える。呉景(ごけい)と孫賁(そんほん)が劉繇を迎え、曲阿(きょくあ)に役所を置かせた。

袁術は簒奪(さんだつ)の企てを推し進め、郡県を攻略し支配地を広げた。劉繇は樊能(はんのう)と張英(ちょうえい)らを遣わし長江の沿岸に軍営を置き、袁術の侵出を食い止める。

その一方、呉景と孫賁は袁術から官位を授けられ働いているとして、丹楊(たんよう)にいたふたりを追い出した。

袁術は独自に恵衢(けいく)を揚州刺史に任じ、呉景や孫賁と共同で劉繇配下の樊能や張英を攻めさせたが、1年余りかけても攻め破ることはできなかった。

劉繇は朝廷から揚州牧(ようしゅうのぼく)・振武将軍(しんぶしょうぐん)の官を加えられ、配下の軍勢は数万になった。

194年、孫策(そんさく)が長江を東に渡ってくると、樊能と張英は撃破された。劉繇は丹徒(たんと)へ逃げ、さらに長江をさかのぼり南進し、豫章(よしょう)を根拠地にしようと彭沢(ほうたく)に軍営を置いた。

ところが、劉繇の先駆けとして豫章に入っていた笮融(さくゆう)が、豫章太守の朱皓(しゅこう)を殺害して郡の役所を占拠し自立の構えを示す。

劉繇は軍勢を進めて笮融を討とうとしたが敗れ、再び兵士を集めようやく討ち破った。笮融は山中へ逃げ込んだが、付近の住民に殺害された。

翌195年、劉繇は42歳で病死し、息子の劉基が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

揚州刺史に任ぜられた劉繇でしたが、そのころには袁術や孫策がいましたから――。彼が江東(こうとう)に勢力を張るのは難しかったでしょうね。

劉繇は劉備(りゅうび)よりよほど出自がしっかりしていましたが、名門の看板を生かすことなく埋没。ただ、陳寿(ちんじゅ)が『三国志』に劉繇の伝を立てながら、兄の劉岱や、同じく帝族の劉虞(りゅうぐ)の伝を立てなかったのはなぜ? という疑問は残りました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
人物データ 群雄諸侯
このページをシェアする
「かぶらがわ」をフォローする
今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

コメント

タイトルとURLをコピーしました