何夔(かき) ※あざなは叔龍(しゅくりょう)

【姓名】 何夔(かき) 【あざな】 叔龍(しゅくりょう)

【原籍】 陳郡(ちんぐん)陽夏県(ようかけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・何夔伝』あり。

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中央と地方で高い能力を示すも、節倹の風潮にはこだわらず、諡号(しごう)は靖侯(せいこう)

父母ともに不詳だが、父は早くに亡くなったという。何衡(かこう)は従父(おじ)。兄がいたこともうかがえるが名は不詳。息子の何曾(かそう)は跡継ぎ。

何夔の曾祖父にあたる何熙(かき)は、漢(かん)の安帝(あんてい。在位106~125年)の時代に車騎将軍(しゃきしょうぐん)まで昇った。

何夔は幼いころに父を亡くし、母や兄と一緒に暮らしたが、孝行ぶりと兄弟仲の良さによって称賛される。彼は身長が8尺(せき)3寸もあり、慎み深く、容貌に威厳が感じられた。

戦乱を避けて淮南(わいなん)へ行ったが、193年に寿春(じゅしゅん)へ進出した袁術(えんじゅつ)の招きには応じなかった。

197年、袁術が橋蕤(きょうずい)とともに蘄陽(きよう)を攻囲したものの、蘄陽城では曹操(そうそう)に味方して守り抜く。

袁術はこの郡の出身である何夔を脅し、蘄陽の人々を説得させようとしたが、何夔は灊山(せんざん)に隠れ逃れる。あくまで何夔が自分のために働かないことを知ると、袁術も計画を取りやめた。

袁術の兄(従兄とも)で山陽太守(さんようたいしゅ)の袁遺(えんい)の母は、何夔の従姑(おば)だった。このことから袁術は何夔を恨みはしたが、危害を加えようとはしなかった。

何夔は郷里に帰ろうと考え、袁術の追跡をかわすため密かに脱出し、翌198年に帰り着く。

しばらくして司空(しくう)の曹操から召され、その掾属(えんぞく。属官)となる。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

後に何夔は城父県令(じょうほけんれい)を経て長広太守(ちょうこうたいしゅ)に昇進した。長広郡は山や海に沿った地域にあり、いまだ黄巾賊(こうきんぞく)が平定されておらず、離反者が多かった。

そのような中、長広県の管承(かんしょう)が3千余軒を仲間に引き込んで乱暴を働く。

しかし、何夔は兵を出して討伐するのではなく、郡丞(ぐんじょう)の黄珍(こうちん)を遣り、管承に事の利害を説かせる。

すると管承らはみな服従を願い出、何夔は成弘(せいこう)を校尉(こうい)として遣わし、彼らの指揮に充てた。

同じころ、牟平(ぼうへい)の賊徒である従銭(じゅうせん)にも数千余軒の仲間がいた。何夔は郡兵をひきいて張遼(ちょうりょう)とともに討伐し、これを平定する。

また東牟(とうぼう)の王営(おうえい)が3千余軒を仲間にし、昌陽県(しょうようけん)で反乱を起こした。何夔は部下の王欽(おうきん)に計を授けて王営らを離散させ、10か月の間にすべて平定した。

このころ曹操は新たな法を制定して州郡に通達し、租税や綿絹の取り立てを始める。

何夔は、郡が設けられて間もないうえ、最近の出兵のこともあるので、急に法で取り締まるべきではないと考えた。

そこで曹操に上言し、3年ほどして民が生業に落ち着いたころを見計らい、初めて法による取り締まりを行うよう勧める。曹操はこの進言を容れた。

208年、曹操が丞相(じょうしょう)になると、何夔は中央へ召し還されて参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)を務める。

その後、海賊の郭祖(かくそ)らが楽安(らくあん)や済南(せいなん)を荒らし回り、州郡を苦しめた。

何夔は以前に長広太守を務めていたが、その際の働きが評価され、ここで楽安太守に起用される。彼が着任して数か月もすると、諸城はすべて平定された。

何夔は中央へ戻って東曹掾(とうそうえん)を務め、人材登用に関する意見を述べる。

213年、魏が建国されると尚書僕射(しょうしょぼくや)に昇進。

217年、曹丕(そうひ)が王太子に立てられると、その少傅(しょうふ。太子少傅)を務める。後に太子太傅(たいしたいふ)の涼茂(りょうぼう)が亡くなると、何夔が代わった。

毎月の朔(ついたち)、何夔が参内して目通りする際にだけ、曹丕は服装を整えて礼を尽くしたという。

そのうち何夔が太僕(たいぼく)に昇進し、曹丕は別れを告げるために供応の用意をさせ、手紙を遣って招待する。

だが何夔は、国家には不変の制度があると言い、供応の招きに応じなかった。

220年、曹丕が帝位に即くと、何夔は成陽亭侯(せいようていこう)に封ぜられて300戸を賜る。

やがて重病にかかり辞職を願い出たが、曹丕はこれまでの功績を評価して認めなかった。

そのうち何夔が死去(時期は不明)すると靖侯と諡(おくりな)され、息子の何曾が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、何夔は、曹操から目をかけられていた丁儀(ていぎ)と仲が悪かったそうです。

尚書の傅巽(ふそん)は何夔に、丁儀の憎みようがひどくなっているから、少し彼を立ててやってはどうかと勧めました。

また、あなたの友人の毛玠(もうかい)らは、すでに丁儀にひどい目に遭わされているとも指摘します。

それでも何夔は意志を曲げず、やはり丁儀は凶悪さと虚偽のために失敗した(220年に弟の丁廙〈ていい〉ともども処刑された)のだと。

こういう真っすぐなところがあるかと思えば、本伝によると――。

何夔の行いは正道を踏んではいたが、節倹の時代にあって最も贅沢(ぜいたく)だったとも。彼は質素な暮らしには興味がなかったようですね。

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