袁尚(えんしょう) ※あざなは顕甫(けんほ)

【姓名】 袁尚(えんしょう) 【あざな】 顕甫(けんほ)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん)

【生没】 ?~207年(?歳)

【吉川】 第115話で初登場。
【演義】 第030回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁紹伝(えんしょうでん)』に付された「袁尚伝」あり。

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袁紹にかわいがられた三男坊

父は袁紹だが、母は不詳。袁譚(えんたん)と袁熙(えんき)は兄。このほかに袁買(えんばい)も弟の可能性がある(甥ともいう)。

袁尚は容姿に優れており、袁紹の寵愛を受けた。袁紹は彼を跡継ぎにしたいと考えていたが、その意思を公表していなかった。重臣の審配(しんぱい)と逢紀(ほうき)は袁尚を推し、辛評(しんぴょう)と郭図(かくと)は袁譚を推した。

202年、袁紹が死去すると、審配と逢紀は袁尚を跡継ぎに立てた。袁譚は青州(せいしゅう)から鄴(ぎょう)へ駆けつけたものの、跡継ぎにはなれず、車騎将軍(しゃきしょうぐん)を称した。

その後、袁譚と跡目争いを続け、敗れた袁譚が曹操(そうそう)に救援を求める。結局、兄弟で争っていたところを曹操に付け込まれ、204年8月には鄴が陥落した。

袁尚は中山(ちゅうざん)で袁譚に敗れると、故安(こあん)へ逃げ、袁熙のもとに身を寄せた。

翌205年1月、袁譚が南皮(なんぴ)で曹操に敗れ、妻子ともども処刑された。

同年1月、袁尚と袁熙は、配下の将軍の焦触(しょうしょく)と張南(ちょうなん)から襲撃を受け、遼西(りょうせい)の烏丸族(うがんぞく)のもとへ逃走した。

またこの年、曹操に降っていた幷州刺史(へいしゅうしし)の高幹(こうかん。袁紹の甥)が背き、上党太守(じょうとうたいしゅ)を捕らえて壺口関(ここうかん)に拠った。高幹は、曹操配下の楽進(がくしん)と李典(りてん)の攻撃をよく防いだ。

翌206年1月、曹操自ら高幹討伐に向かうと、高幹は部将の夏昭(かしょう)と鄧升(とうしょう)を壺口関の守りに残し、自身は匈奴(きょうど)の単于(ぜんう。王)に救援を求めに行く。

ところが単于の承諾は得られず、数騎の従者とともに荊州(けいしゅう)へ落ち延びようとしたところ、3月に上洛都尉(じょうらくとい)の王琰(おうえん)に捕らえられて斬殺された。

翌207年、曹操が遼西に到着し、烏丸族を攻撃。

同年8月、袁尚と袁熙は、烏丸族とともに応戦したものの敗れ、さらに遼東(りょうとう)へ逃げ込む。

同年9月(11月とも)、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫康(こうそんこう)に騙(だま)し討ちされ、袁熙ともども斬り殺される。公孫康は、ふたりの首を曹操に届けさせた。

主な経歴

生年は不詳。

-202年-
5月、父の袁紹が死去。審配と逢紀により、跡継ぎとして立てられる。兄の袁譚は車騎将軍を自称。

?月、曹操が袁氏討伐のために北上すると、袁譚が黎陽(れいよう)に布陣。しかし、袁尚は袁譚に少数の兵しか出さず、かえって目付役として逢紀を送り込む。袁譚の増兵要求を拒否したところ、逢紀が殺害された。

?月、曹操が黄河(こうが)を渡って攻め寄せてくると、袁譚から危急が伝えられる。送り出す援軍が袁譚に奪われることを警戒し、自ら軍勢をひきいて出陣。黎陽で曹操と対峙(たいじ)した。

-203年-
2月、昨年9月から、黎陽の城下で曹操と激戦を繰り広げた末に敗れ、袁譚とともに籠城。

3月、曹操が黎陽城を包囲しようとしたため、夜に紛れて鄴へ逃げ戻る。

4月、曹操が鄴まで追撃して、近隣の麦を奪い、陰安(いんあん)を陥した後、5月に許(きょ)へ引き揚げる。

8月、曹操が劉表(りゅうひょう)討伐のために西平(せいへい)へ向かうと、袁譚と鄴の城下で激しく戦う。敗れた袁譚は平原(へいげん)へ逃走。これをさらに攻め立てると、袁譚は辛毗(しんぴ)を曹操のもとに遣わし、救援を要請した。

10月、曹操が西平から反転し、軍勢をひきいて黎陽に到着。曹操が戻ってくると聞き、袁尚は平原の包囲を解いて鄴へ引き揚げたが、配下の呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)が曹操に降ってしまう。

-204年-
2月、審配と蘇由(そゆう)を鄴に残し、再び平原へ攻め寄せる。

この間に曹操は鄴を攻めようとし、鄴から50里の洹水(かんすい)に到着。曹操に内応しようとした蘇由の計画が露見。蘇由は城内で審配と戦って敗れ、城外にいた曹操のもとへ逃げ込んだ。

4月、曹操が鄴攻めに曹洪(そうこう)を残し、上党郡(じょうとうぐん)から鄴へ通ずる糧道を守っていた、毛城(もうじょう)の尹楷(いんかい)を撃破。

さらに邯鄲(かんたん)で沮鵠(しょこく)を討ち破り、易陽県令(えきようけんれい)の韓範(かんはん)と渉県長(しょうけんちょう)の梁岐(りょうき)を降した。

5月、曹操が鄴を守る審配に手を焼き、漳水(しょうすい)を決壊させて水攻めを行う。5月から8月にわたって包囲が続き、鄴の城内では過半数の者が餓死した。

7月、鄴の危機を知り、1万余りの軍勢をひきいて、鄴から17里の陽平亭(ようへいてい)に到着。しかし城内の審配とうまく連係できず、やがて自軍が総崩れとなり、中山へ逃走した。

8月、審配の奮戦むなしく鄴が陥落。ほどなく幷州にいた高幹も曹操に降伏した。

曹操が鄴を包囲していたとき、袁譚は甘陵(かんりょう)・安平(あんぺい)・勃海(ぼっかい)・河間(かかん)を攻略し、中山へも攻め寄せてきた。中山で敗れると袁尚は故安(こあん)へ逃げ、袁熙のもとに身を寄せた。

こうして袁譚が袁尚の軍勢を併せたところ、曹操は姻戚関係を絶ち、討伐の動きを見せた。そこで袁譚は、平原を攻め落としたうえで南皮も併合。自身は龍湊(りょうそう)に駐屯した。

12月、曹操が龍湊に攻め寄せたものの、袁譚は出兵せず、夜のうちに南皮に逃げ、清河(せいか)を前に布陣。

-205年-
1月、袁譚が南皮で曹操に敗れ、妻子ともども処刑される。

1月、袁尚は配下の将軍の焦触と張南に襲撃され、袁熙とともに遼西の烏丸族のもとへ逃走。

-207年-
?月、曹操が遼西に到着し、烏丸族を攻撃。8月に袁尚は袁熙や烏丸族とともに応戦したものの敗れ、さらに遼東へ逃げ込む。

9月(11月とも)、遼東太守の公孫康に騙し討ちされ、袁熙ともども斬り殺される。

管理人「かぶらがわ」より

ふたりの兄を差し置いて、父の寵愛を独占した袁尚。ですが、己を磨くことは怠っていたらしい。もし彼が一歩下がり、袁譚に全面的に譲歩していれば、袁氏には別の展望が開けていたかもしれません。

北へ北へと逃げ回った末、最後は首になってしまうなんて――。名門の誇りも何もあったものじゃないですね。

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