袁譚(えんたん) ※あざなは顕思(けんし)

【姓名】 袁譚(えんたん) 【あざな】 顕思(けんし)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)汝陽県(じょようけん)

【生没】 ?~205年(?歳)

【吉川】 第097話で初登場。
【演義】 第022回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・袁紹伝(えんしょうでん)』に付された「袁譚伝」あり。

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袁紹の長男、兄弟喧嘩(げんか)の末に自滅

父は袁紹だが、母は不詳。袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)は弟。このほかに袁買(えんばい)も弟の可能性がある(甥または息子の可能性もある)。

199年、袁譚は袁紹の意向により、青州刺史(せいしゅうしし)として統治にあたった。

袁紹は年少の袁尚を寵愛し、跡継ぎにと考えていたが、まだこの意思を公表していなかった。重臣の審配(しんぱい)と逢紀(ほうき)は袁尚を推し、辛評(しんぴょう)と郭図(かくと)は袁譚を推した。

202年、袁紹が死去すると、審配と逢紀は袁尚を跡継ぎに立てる。袁譚は青州から鄴(ぎょう)へ駆けつけたものの、跡継ぎにはなれず、車騎将軍(しゃきしょうぐん)を称した。

その後、袁尚と跡目争いを続けたが敗れ、曹操(そうそう)に救援を求める。結局、兄弟で争っていたところを曹操に付け込まれ、204年8月には鄴が陥落した。

翌205年1月、曹操に南皮(なんぴ)で敗れると、袁譚は妻子ともども処刑された。

主な経歴

生年は不詳。

-202年-
5月、父の袁紹が死去。審配と逢紀が弟の袁尚を跡継ぎに立てたため、自身は車騎将軍を称する。

?月、曹操が袁氏討伐のために北上すると、袁譚は黎陽(れいよう)に布陣。しかし、袁尚は少数の兵しかよこさなかったうえ、目付役として逢紀を送り込んできた。増兵の要求が聞き入れてもらえず、腹いせに逢紀を殺害した。

?月、曹操が黄河(こうが)を渡って攻め寄せてくると、袁尚に危急を伝える。袁尚は、援軍を袁譚に奪われることを警戒して自ら出陣し、黎陽で曹操と対峙(たいじ)した。

-203年-
2月、昨年9月から、黎陽の城下で曹操と激戦を繰り広げた末に敗れ、袁尚とともに籠城。

3月、曹操が黎陽城を包囲しようとしたため、夜に紛れて鄴へ逃げ戻る。

4月、曹操が鄴まで追撃して、近隣の麦を奪い、陰安(いんあん)を陥した後、5月に許(きょ)へ引き揚げる。

8月、曹操が劉表(りゅうひょう)討伐のために西平(せいへい)へ向かうと、袁尚と鄴の城下で激しく戦う。だが、これに敗れて平原(へいげん)へ逃走。さらに袁尚に攻め立てられると、辛毗(しんぴ)を曹操のもとに遣わして救援を要請した。

10月、曹操が西平から反転し、軍勢をひきいて黎陽に到着。

袁尚は曹操が戻ってくると聞き、平原の包囲を解いて鄴へ引き揚げたが、配下の呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)は曹操に降った。そこで袁譚は、密かに呂曠と呂翔に将軍の印を贈り、味方に付けようとした。

曹操は袁譚の考えを見破っていたが、息子の曹子整(そうしせい)の嫁として袁譚の娘を迎えると言って安心させたうえ、軍勢を引き揚げた。

-204年-
2月、袁尚が審配と蘇由(そゆう)を鄴に残し、再び平原へ攻め寄せる。

この間に曹操は鄴を攻めようとし、鄴から50里の洹水(かんすい)に到着。曹操に内応しようとした蘇由の計画が露見。蘇由は城内で審配と戦って敗れ、城外にいた曹操のもとへ逃げ込んだ。

4月、曹操が鄴攻めに曹洪(そうこう)を残し、上党郡(じょうとうぐん)から鄴へ通ずる糧道を守っていた、毛城(もうじょう)の尹楷(いんかい)を撃破。

さらに邯鄲(かんたん)で沮鵠(しょこく)を討ち破り、易陽県令(えきようけんれい)の韓範(かんはん)と渉県長(しょうけんちょう)の梁岐(りょうき)を降した。

5月、曹操が鄴を守る審配に手を焼き、漳水(しょうすい)を決壊させて水攻めを行う。5月から8月にわたって包囲が続き、鄴の城内では過半数の者が餓死した。

7月、袁尚が鄴の危機を知り、1万余りの軍勢をひきいて、鄴から17里の陽平亭(ようへいてい)に到着。しかし城内の審配とうまく連係できず、やがて総崩れとなり、袁尚は中山(ちゅうざん)へ逃走した。

8月、審配の奮戦むなしく鄴が陥落。ほどなく幷州にいた高幹(こうかん。袁紹の甥)も曹操に降伏した。

曹操が鄴を包囲していたとき、袁譚は甘陵(かんりょう)・安平(あんぺい)・勃海(ぼっかい)・河間(かかん)を攻略し、中山にいた袁尚を攻めた。袁尚は故安(こあん)へ逃げ、袁熙のもとに身を寄せた。

こうして袁尚の軍勢を併せたところ、曹操が姻戚関係を絶ち、討伐の動きを見せた。そこで袁譚は、平原を攻め落としたうえで南皮も併合。自身は龍湊(りょうそう)に駐屯した。

12月、曹操が龍湊に攻め寄せたものの出兵せず、夜のうちに南皮へ逃げ、清河(せいか)を前に布陣。

-205年-
1月、曹操に南皮で敗れ、妻子ともども処刑される。

管理人「かぶらがわ」より

弟の袁尚って、どれだけ美男子だったんだよ――。というくらい、父の袁紹から距離を置かれていた観のある袁譚。

確かに袁譚・袁尚とも大器ではなかったのでしょうが、この争いを招いたのは生前の袁紹の態度ですよね。

袁氏の兄弟が結束しても相手になれるのか? と言えるほどスゴいのが曹操。跡目争いで勢力を削り合っていたのでは、とても勝ち目はありません。

袁譚か袁尚がよくできた人で、どちらかが譲ってしまえるほど度量が大きかったとか、袁熙が卓越した調整能力を持っていたとか、そのような可能性がまったく感じられないのは残念でした。

まぁ、兄弟のうちで、ひとりだけよくできた人がいても難しいのでしょう。それぞれを推す重臣がいたりもしますからね。

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