毌丘倹(かんきゅうけん)

【姓名】 毌丘倹(かんきゅうけん) 【あざな】 仲恭(ちゅうきょう)

【原籍】 河東郡(かとうぐん)聞喜県(ぶんきけん)

【生没】 ?~255年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・毌丘倹伝』あり。

北方の討伐で活躍。司馬師(しばし)打倒をもくろむも、最期は平民に射殺される

父は毌丘興(かんきゅうこう)だが、母は不詳。毌丘秀(かんきゅうしゅう)は弟。毌丘甸(かんきゅうでん)と毌丘宗(かんきゅうそう)という息子(どちらが年長なのかはわからず)がおり、このほかにも息子がいたことがうかがえる。

毌丘倹は毌丘興が死去(時期は不明)したためその跡を継ぎ、「高陽郷侯(こうようきょうこう)」に封ぜられた。そして、平原侯(へいげんこう)の曹叡(そうえい)の「文学(ぶんがく。官名)」を務めた。

後文を見たところ、ここで出てきた「平原侯」は曹叡のことだと思われる。ただ曹叡は220年に「武徳侯(ぶとくこう)」に封ぜられ、翌221年には「斉公(せいこう)」に、翌222年には「平原王」に、それぞれ爵位を進められた。なぜ「平原侯」と書かれているのかはよくわからなかった。ちなみに、曹叡が「平原王」だった期間は222~226年(に「皇太子〈こうたいし〉」に立てられるまで)。

226年、曹叡が帝位を継ぐと毌丘倹は「尚書郎(しょうしょろう)」となり、やがて「羽林監(うりんかん)」に昇進。曹叡が東宮(とうぐう)にいたころから付き合いがあったため、特に厚遇されたという。

のち地方へ出て洛陽(らくよう)の「典農(てんのう)」となる。農民を徴発し宮殿の造営が行われるようになると、毌丘倹は上奏文を奉り諫めた。やがて「荊州刺史(けいしゅうのしし)」に昇進。

青龍(せいりょう)年間(233~237年)、曹叡は遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)を討伐したいと考える。そこで事態に即した計策が用いられる人物として毌丘倹を起用。彼を「幽州刺史(ゆうしゅうのしし)」に転任させ「度遼将軍(どりょうしょうぐん)・使持節(しじせつ)・護烏丸校尉(ごうがんこうい)」の官位を加えた。

237年、毌丘倹は幽州の諸軍に加え、烏丸と鮮卑(せんぴ)の兵もひきい襄平(じょうへい)を目指し、遼隧(りょうすい)まで進出。しかし大雨で遼水が氾濫したため、詔(みことのり)により右北平(ゆうほくへい)まで引く。

ここで右北平の烏丸単于(うがんぜんう。王)の寇婁敦(こうろうとん)や、遼西(りょうせい)の烏丸都督率衆王(うがんととくそっしゅうおう)の護留(ごりゅう)など、以前(207年に)袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)の兄弟に付き遼東へ逃げ込んだ者たちが、5千余の部下を引き連れて降った。

寇婁敦は弟の阿羅槃(あらはん)を遣わし魏に朝貢。これを受け曹叡は、彼らの部族長20余人を王侯に封じ、それぞれに格差をつけて輿(くるま)や馬、色付きの絹織物を賜与した。

翌238年春、太尉(たいい)の司馬懿(しばい)が公孫淵討伐に向かい、6月には遼東に到着。毌丘倹も彼の指揮下で活躍する。

同年9月(8月とも)、公孫淵を討ち遼東平定が成ると、毌丘倹は一連の功績によって「安邑侯(あんゆうこう)」に爵位が進み、封邑(ほうゆう)は3900戸となった。

のち曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、たびたび高句麗(こうくり)が魏に背き、侵攻を繰り返す。

244年、毌丘倹は歩騎1万をひきいて玄菟(げんと)を発ち、諸街道から討伐に向かう。

高句麗王の位宮(いきゅう)が歩騎2万をひきい、沸流水(ふつりゅうすい。鴨緑江〈おうりょくこう〉)のほとりまで侵出すると、梁口(かつこう。「梁」は「渇」と同音だという)で大いに戦い、連敗した位宮が逃走した。

毌丘倹は丸都山(がんとざん)へ攻め上り、ついに高句麗の都を破壊し、4ケタに上る首級と捕虜を得る。位宮は妻子を連れて逃げたため、毌丘倹も軍を引き揚げ帰還した。

翌245年、毌丘倹が再び高句麗討伐に乗り出すと、位宮は買溝(ばいこう)へ逃走。そこで毌丘倹は、玄菟太守(げんとたいしゅ)の王頎(おうき)に追撃を命ずる。

王頎は沃沮(よくしょ。国名)を越え1千余里(り)、粛慎氏(しゅくしんし。挹婁国〈ゆうろうこく〉の古名)の南界にまで到達。そして石に功績を刻み、丸都山に文字を彫り、濊貊(わいばく)の不耐城(ふたいじょう)に銘文を記した。

高句麗および濊貊の討伐において、誅殺したり降伏させた者は8千余人にもなり、功によって「侯」となった者が100余人いた。また、毌丘倹は山にトンネルを掘って灌漑(かんがい)を行い、民がその恩恵を受けたという。

毌丘倹は「左将軍(さしょうぐん)・仮節(かせつ)・監豫州諸軍事(かんよしゅうしょぐんじ)」に昇進し「豫州刺史」を兼ねる。次いで「鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)」に転任。

252年、諸葛誕(しょかつたん)が東関(とうかん)で呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく)と戦い敗れると、毌丘倹が代わって「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・都督揚州諸軍事(ととくようしゅうしょぐんじ)」となる。

翌253年、合肥新城(ごうひしんじょう)が諸葛恪に包囲されると、毌丘倹は文欽(ぶんきん)とともにこれを防ぐ。そのうち太尉の司馬孚(しばふ)が東征してきたので、諸葛恪は包囲を解き引き揚げた。

最初、毌丘倹は夏侯玄(かこうげん)や李豊(りほう)と親しかった。

夏侯玄、李豊とも、254年に司馬師を誅殺しようとして失敗し、三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)皆殺しとされた。

文欽は曹爽(そうそう)と同郷だったことから厚遇を受けたが、249年に曹爽が誅殺されて以来、不安な日々を過ごしていた。毌丘倹は考えがあって文欽と親しくし、文欽のほうも彼に忠実な態度を見せる。

255年1月、長さ数十丈(じょう)もある彗星(すいせい)が現れ、西北の空いっぱいに尾を引く。それは呉や楚(そ)の分野(ぶんや。呉や楚に相当する星宿)にあたっていた。毌丘倹と文欽は喜び、自分たちにとって瑞兆(ずいちょう)だと考える。

そこで郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)の詔書を偽作し、大将軍(だいしょうぐん)の司馬師の罪を11か条にわたり書き連ね、これを郡国へ送ったうえで挙兵した。

まずは淮南(わいなん)の諸屯営にある将兵や官民を脅し、みな寿春城(じゅしゅんじょう)へ入れる。そして城西に祭壇を築き、武器を手に血をすすって誓いを立てると、老人や幼児は城に残し出撃した。

毌丘倹と文欽は5、6万の軍勢をひきいて淮水を渡り、西方の項(こう)まで進む。毌丘倹は項城を堅守し、文欽は城外へ出て遊軍となった。これに対し司馬師は、内外の軍勢をひきいて自ら討伐にあたる。

別に鎮南将軍の諸葛誕に豫州の諸軍を指揮させ、安風津(あんふうしん)から寿春へ向かうように見せかける一方、征東将軍(せいとうしょうぐん)の胡遵(こじゅん)に青州(せいしゅう)および徐州(じょしゅう)の諸軍をひきいさせ、譙(しょう)と宋(そう)の間で敵の退路を断つよう命じた。

司馬師は汝陽(じょよう)に駐屯し、行監軍(こうかんぐん)の王基(おうき)が南頓(なんとん)を占拠した。毌丘倹と文欽は、先に南頓を押さえられたと知り項へ引き返す。

このころ司馬師の命を受け、兗州刺史(えんしゅうしし)のトウ艾(とうがい。登+阝)が楽嘉(らくか)に駐屯しており、毌丘倹は文欽に襲撃を命ずる。だが、これは彼らを誘い出す策だったため、追撃を受けた文欽は逃走。

毌丘倹は文欽の敗報を聞くと夜間に逃亡し、配下の軍勢も崩壊。そのうえ慎県(しんけん)に着くまでの間に、側近や兵も毌丘倹を見捨て逃げ去ってしまう。やむなく彼は弟の毌丘秀と孫の毌丘重(かんきゅうちょう)だけを連れ、水辺の草に身を潜める。

そこを安風津都尉(あんふうしんとい)の部民である張属(ちょうぞく)に見つかり、毌丘倹は射殺された。毌丘秀と毌丘重は呉へ逃げ込んだ。

毌丘倹の首は都へ送られ、張属は「列侯(れっこう)」に封ぜられた。毌丘倹と文欽に脅されて従った将兵は、みな帰順したという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、毌丘倹の息子の毌丘甸は「治書侍御史(ちしょじぎょし)」を務めていましたが、父の計画が実行に移されようとしていることを知り、ひそかに家族を連れて都を出て、新安霊山(しんあんれいざん)へ逃げたそうです。しかし司馬師の別軍による攻撃を受け、毌丘倹の三族は皆殺しにされたということでした。

習鑿歯(しゅうさくし)は、毌丘倹が挙兵したことを高く評価していましたけど……。司馬師の身辺に(毌丘倹に協力してくれる)有力な味方がいない状況では、計画の実現はかなり厳しかったのではないかと感じました。

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