諸葛誕(しょかつたん)

【姓名】 諸葛誕(しょかつたん) 【あざな】 公休(こうきゅう)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)陽都県(ようとけん)

【生没】 ?~258年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第110回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・諸葛誕伝』あり。

王淩(おうりょう)や毌丘倹(かんきゅうけん)に続き淮南(わいなん)で散る

父母ともに不詳。諸葛靚(しょかつせい)は息子で、このほかにも息子がいたことがうかがえる。司馬懿(しばい)の息子の司馬伷(しばちゅう)に嫁いだ娘もいた。諸葛瑾(しょかつきん)や諸葛亮(しょかつりょう)とは同族で、みな諸葛豊(しょかつほう)の子孫である。

諸葛豊は前漢(ぜんかん)の元帝(げんてい。在位、前48~前33年)に仕えた「司隷校尉(しれいこうい)」。権力者に対しても手心を加えず、剛直なことで有名だった。

初め諸葛誕は「尚書郎(しょうしょろう)」として「滎陽県令(けいようけんのれい)」に任ぜられ、中央へ入り「吏部郎(りぶろう)」となった。のち昇進を重ねて「御史中丞(ぎょしちゅうじょう)・尚書」を務める。

彼は夏侯玄(かこうげん)やトウ颺(とうよう。登+阝)らと仲が良く、朝廷で名を上げ都の人々から慕われた。

だが、虚名を集める者を退けるようにと進言した者がおり、曹叡(そうえい)も彼らを嫌う。このことから諸葛誕も免職されたが、ほどなく(239年に)曹叡は崩御(ほうぎょ)し、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐ。

翌240年、夏侯玄らが官職に就いていたおかげで、再び諸葛誕も「御史中丞・尚書」に任ぜられる。次いで地方へ出て「揚州刺史(ようしゅうのしし)」となり「昭武将軍(しょうぶしょうぐん)」の官位を加えられた。

251年、王淩が陰謀を企てた際、太傅(たいふ)の司馬懿はひそかに東征を行う。このとき諸葛誕は「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督揚州諸軍事(ととくようしゅうしょぐんじ)」に任ぜられ「山陽亭侯(さんようていこう)」に封ぜられた。

翌252年、諸葛誕は東関(とうかん)で呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく)と戦って大敗。帰還後に毌丘倹と交代させられ「鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・都督豫州諸軍事(ととくよしゅうしょぐんじ)」に転じた。

255年、諸葛誕のもとに、淮南で反乱を起こした毌丘倹と文欽(ぶんきん)から使者が来る。豫州の士民を挙げて味方に付くよう誘われたものの、諸葛誕は使者を斬り、毌丘倹らの非道ぶりを天下に知らせた。

大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)が東征に出ると、諸葛誕は命を受け豫州の諸軍をひきい、安風津(あんふうしん)を渡り寿春(じゅしゅん)へ向かう。毌丘倹と文欽が敗れると、諸葛誕は寿春への一番乗りを果たした。

この年、文欽は楽嘉(らくか)で魏の兗州刺史(えんしゅうしし)のトウ艾(とうがい。登+阝)に敗れ呉へ逃走。毌丘倹も項(こう)から逃走したが、安風津都尉(あんふうしんとい)の部民である張属(ちょうぞく)によって射殺された。

城内にいた10余万の民は毌丘倹らの敗報を聞き、処刑を恐れ城外へ逃げ出す。彼らは山や沼地に流れ込み、散りぢりになって呉へ逃げた者もあったという。

諸葛誕は長く淮南に在任していたため、再び「鎮東大将軍・儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)・都督揚州諸軍事」として起用される。

呉の孫峻(そんしゅん)らが淮南の混乱を知ったとき、ちょうど文欽が逃げてきた。これを受けて軍勢をひきい、文欽とともに寿春へ向かったものの、すでに諸葛誕の軍が着いていたので引き揚げる。

諸葛誕は将軍の蔣班(しょうはん)に追撃を命じ、呉将の留賛(りゅうさん)を討ち取る。留賛の官印や「節」を手に入れ、その首を都へ送った。

諸葛誕は功により「高平侯(こうへいこう)」に爵位が進み、封邑(ほうゆう)は3500戸となる。さらに「征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)」に昇進した。

諸葛誕は夏侯玄やトウ颺と親密だったうえ、王淩や毌丘倹が破滅したのを見て恐怖や不安を感じ始める。

249年、トウ颺は曹爽(そうそう)らとともに大逆不道の罪で処刑され、三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)皆殺しとなった。

254年、夏侯玄は司馬師を誅殺しようとして失敗。やはり三族皆殺しにされた。

そこで家産を傾け民に施し、身内や揚州の遊俠(ゆうきょう)の徒、数千人を厚遇。彼らを命知らずの手下とした。

256年冬、呉が徐ゲツ(じょげつ。土+曷)に侵攻する様子を見せる。魏の朝廷は現状の兵力で十分に対抗できると判断したが、諸葛誕は寿春の守備に充てるとして10万の増派を要請。さらに淮水に臨む場所に新たな城を築き、敵の来攻に備えたいとも願い出た。

朝廷では諸葛誕が疑心を抱いていると察していたが、彼が先帝以来の旧臣であることも考慮。まずは召し寄せたうえ、後のことを図ろうとした。

翌257年4月、諸葛誕は「司空(しくう)」に任ずる旨の詔書を受け取り、都へ召し還されることになったものの、いよいよ彼は恐怖に耐えられなくなった。

同年5月、ついに諸葛誕は諸将を集めて反乱を起こし、自ら揚州刺史の楽綝(がくりん)を攻め殺す。そして、淮南や淮北の郡県で屯田を行う10余万の官吏と兵に加え、新たに揚州の精兵4、5万を従わせる。

こうして1年を支えるに足るだけの兵糧を集め、寿春の城門を閉じて守りを固めた。一方で息子の諸葛靚に長史(ちょうし)の呉綱(ごこう)を付けて呉へ遣わし、救援を求めた。

呉では大いに喜び、将軍の全懌(ぜんえき)・全端(ぜんたん)・唐咨(とうし)・王祚(おうそ)・文欽らと3万の軍勢を派遣。

また呉は、諸葛誕を「左都護(さとご)・仮節・大司徒(だいしと)・驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・青州牧(せいしゅうのぼく)」に任じたうえ「寿春侯」に封じた。

このころ魏の鎮南将軍の王基(おうき)が到着し、諸軍をもって寿春を包囲する。だが包囲網が完成しないうち、唐咨と文欽らは東北から山づたいに難所を越え、軍勢をひきいて城に入った。

同年6月、曹髦(そうぼう)が親征し、項に到着。この時は郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)まで伴っていた。大将軍の司馬昭(しばしょう)は26万もの大軍をひきい、淮水に臨む。

司馬昭は丘頭(きゅうとう)に駐屯。王基や安東将軍(あんとうしょうぐん)の陳騫(ちんけん)に命じ、四方から寿春を囲ませ二重に陣を固める。

そのうえ監軍(かんぐん)の石苞(せきほう)や兗州刺史の州泰(しゅうたい)らに精兵を付けて遊軍とし、外からの攻撃に備えさせた。

たびたび文欽は包囲を破ろうとしたが、魏軍に撃退される。呉将の朱異(しゅい)も大軍をひきいて黎漿水(れいしょうすい)を渡ったが、二度とも州泰らに撃退された。

同年9月、この様子に呉の大将軍の孫綝(そんりん)が腹を立て、朱異を処刑する。寿春の城内では兵糧が乏しくなり、援軍も来なかったため人々は当てを失った。

同年11月、将軍の蔣班と焦彝(しょうい)が諸葛誕を見捨て、城壁を乗り越えて司馬昭に帰順。これを受け司馬昭は城内へ間者を送り込み、全懌らに家族が呉で誅殺されそうになっていると伝えさせる。全懌らは数千の部下を引き連れ、城門を開いて降伏。城内の者たちはどうすることもできなかった。

翌258年1月、諸葛誕・文欽・唐咨らは大量の兵器を準備し、5、6昼夜にわたって南の包囲陣を攻め続け、何とか突破を図る。しかし、兵器は魏軍に焼き払われてしまい、多数の死傷者を出すのみに終わった。城へ戻ったものの兵糧も尽き、城を出て降伏する者が数万に及んだ。

文欽は、北方の出身者を城外へ出して兵糧を節約し、呉の人々と城を固守すべきだと進言するが、諸葛誕は聞き入れない。このことからふたりは憎み合うようになり、ほどなく諸葛誕が文欽を殺害してしまった。

文欽の死を聞き、息子の文鴦(ぶんおう)と文虎(ぶんこ)は身ひとつで城外へ逃れ、司馬昭に帰順した。

司馬昭はふたりを処刑しないばかりか、上奏して「将軍」に任じたうえ「関内侯(かんだいこう)」に封ずる。そして、ふたりに数百騎を付け城の周りを駆け巡らせ、城内に向かって呼びかけさせた。

「文欽の子ですら殺されないのだ。ほかの者たちは(降伏しても)何の心配があるというのだ!」

こう聞いた城内の者は喜びもし、動揺もした。

同年2月、司馬昭が総攻撃を命ずると、もう城内に思い切って抵抗する者はいない。追い詰められた諸葛誕は部下とともに打って出たが、大将軍司馬の胡奮(こふん)の軍と戦って斬られた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、諸葛誕の首は都へ送られ、彼の三族は皆殺しにされた(呉へ行っていた諸葛靚は無事)ということでした。

彼とともに打って出て生き残った数百の兵たちも降伏しなかった罪で処刑されましたが、みなこう言ったそうです。

「諸葛公のために死ねるのだから、心残りはない」

呉の唐咨と王祚、その副将らは後ろ手に縛られた姿で降伏。1万を数えたという呉兵も降り、武器や軍需物資が山のように積み重なったとも。淮南に長くいると、どうしても様々な思いが膨らんでしまうものなのでしょうね……。

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