張超(ちょうちょう)B ※張邈(ちょうばく)Bの弟、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

【姓名】 張超(ちょうちょう) 【あざな】 ?

【原籍】 東平国(とうへいこく)寿張県(じゅちょうけん)

【生没】 ?~195年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

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反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯、臧洪(そうこう)を重用して政務を委ねる

父母ともに不詳。張邈(ちょうばく)は兄。

霊帝(れいてい。在位168~189年)の末年、広陵太守(こうりょうたいしゅ)を務めていた張超は、官位を捨てて帰郷していた臧洪を招き、郡の功曹(こうそう)に任じた。

190年1月、山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、張超もこの動きに呼応。

張超が、兄の張邈らとともにいち早く決起したのは、臧洪の進言があったからだった。しかし諸侯の足並みがそろわず、やがて連合軍は自然解散してしまう。

194年、曹操(そうそう)が再度の陶謙(とうけん)討伐に赴いた際、張超は陳宮(ちんきゅう)らと結託して曹操に背く。張邈も陳宮の進言に従い、呂布(りょふ)を迎えて兗州牧(えんしゅうぼく)とし、濮陽(ぼくよう)に立て籠もった。

翌195年、呂布が定陶(ていとう)や鉅野(きょや)で曹操に敗れ、徐州(じょしゅう)にいた劉備(りゅうび)のもとへ逃走。

このとき張超は張邈の命を受け、一族とともに雍丘(ようきゅう)を守ることになった。そして張邈は呂布に同行した。

同年8月、雍丘が曹操軍に包囲される。

同年12月。雍丘が陥落。張超は自殺し、城内にいた張邈の三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しにされた。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・臧洪伝)には、反董卓の兵を挙げ、酸棗(さんそう)に軍勢を結集していたとき、張超と兄の張邈とのやり取りの中に、臧洪を評価したものがありました。

張邈が張超に尋ねます。

「お前は郡守(広陵太守)なのに、政治や教化、刑罰や恩賞といったことを自分で行わず、配下の臧洪に任せているといううわさだが、彼はどのような人物なのだ?」

これに張超が答えます。

「臧洪の才は私より優れております。だから重用しているのです。彼は天下の奇士と言えましょう」

この話を聞いた張邈は臧洪を呼んで語り合い、やはり非常に優れていると感じたのだと。

後(195年)に張超が雍丘で危機に陥った際、袁紹(えんしょう)の下で東郡太守(とうぐんたいしゅ)を務めていた臧洪は、張超を救援するための兵馬を貸してほしいと頼みましたが、袁紹は許可しませんでした。

張超は人を見る目があったらしい。政務の多くを配下に任せるというのは、できそうでなかなかできないもの。これは怠慢とは違います。ただ、呂布を迎えて曹操に反抗する選択は失敗でしたね。

あと、『三国志』(の裴松之注〈はいしょうしちゅう〉)には「河間(かかん)の張超」という人物も出てきます。あざなは子並(しへい)といい、書の名人だったということです。このふたりの張超の区別が意外とつきにくい。

初めは同一人物かと思っていましたが、河間国は冀州(きしゅう)、東平国は兗州なので、ふたりは別人ですよね?

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