董承(とうしょう)

【姓名】 董承(とうしょう) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~200年(?歳)

【吉川】 第048話で初登場。
【演義】 第013回で初登場。
【正史】 登場人物。

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献帝(けんてい)から衣帯の密詔を賜るも、志は果たせず

父母ともに不詳。

董承は、霊帝(れいてい)の母である董太后(とうたいこう)の甥にあたるという。娘の董氏は献帝の貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)となった。

195年7月、長安(ちょうあん)にあった献帝が、洛陽(らくよう)への還幸を決断。このとき董承は、安集将軍(あんしゅうしょうぐん)に任ぜられて随行する。

翌196年7月、献帝一行が洛陽にたどり着く。

董承は、この年の2月の時点で衛将軍(えいしょうぐん)に昇進していたことがうかがえるが、詳しい経緯はわからず。

同年8月、董承は、輔国将軍(ほこくしょうぐん)の伏完(ふくかん)らとともに列侯(れっこう)に封ぜられる。

同年8月、曹操(そうそう)の意向を受け入れ、献帝が許(きょ)への遷都を決める。董承も群臣とともに随行。

199年3月、車騎将軍(しゃきしょうぐん)に昇進。

この年、献帝から御衣と玉帯を賜る。玉帯には「曹操を誅殺すべし」との密詔が忍ばせてあり、董承は許にいた劉備(りゅうび)にもこのことを伝えた。

しかし、ほどなく劉備は曹操の命を受け、朱霊(しゅれい)や路招(ろしょう)をひきいて袁術(えんじゅつ)討伐へ出発。

同年6月、袁術が病死。このとき劉備は徐州(じょしゅう)に到着していなかったが、朱霊らを許へ帰した後、徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害し、そのまま徐州に留まった。

翌200年1月、曹操誅殺計画が漏れる。

これは董承が、長水校尉(ちょうすいこうい。越騎校尉〈えっきこうい〉とも)の种輯(ちゅうしゅう)、将軍の呉子蘭(ごしらん)、偏将軍(へんしょうぐん)の王子服(おうしふく。王服)らとともに謀議を重ねたものだった。

計画に関わった董承らは、曹操の命により一族ともども処刑されたが、その中には献帝の子を身ごもっていた董貴人も含まれていた。

管理人「かぶらがわ」より

正史『三国志』および范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には董承の伝が立てられていないため、その事績も断片的なものしか拾えませんでした。

董承と言えば、やはり衣帯の密詔ですよね。

吉川『三国志』(第79話)あたりでは、車騎将軍の董承を筆頭に、校尉(血判状では長水校尉)の种輯、将軍(血判状では昭信将軍〈しょうしんしょうぐん〉)の呉子蘭、侍郎(じろう。血判状では工部郎中〈こうぶろうちゅう〉)の王子服、議郎(ぎろう)の呉碩(ごせき)、西涼太守(せいりょうたいしゅ)の馬騰(ばとう)、そして予州刺史(よしゅうしし。豫州刺史。血判状では左将軍〈さしょうぐん〉)の劉備を加えた7人が、曹操誅殺を誓う血判状に署名していました。

『三国志演義』(第21回)で出てくる7人も同じ顔ぶれですが、董承、王子服、种輯、呉碩、呉子蘭、馬騰、劉備の順に署名したことになっており、いくらか順番が違います。

両者ともここに至る直前、許田で催された巻き狩りにおける、献帝への曹操の無礼な振る舞いを印象づけたりしており、なかなか巧みな展開になっています。まぁ史実では、この件に馬騰は関係ないのですけど……。

正史『三国志』には、この計画がなぜ露見したのか書かれていませんが、曹操の目や耳となる者が数多くいたということでしょう。

それにしても、劉備はうまく難を逃れましたね。こう見事にかわされると、かえって何だかなぁという感じもします。

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