劉備(りゅうび) ※あざなは玄徳(げんとく)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の昭烈皇帝(しょうれつこうてい)

【姓名】 劉備(りゅうび) 【あざな】 玄徳(げんとく)

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 161~223年(63歳)

【吉川】 第001話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・先主伝(せんしゅでん)』あり。

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蜀(しょく)の初代皇帝、昭烈皇帝(しょうれつこうてい)

父は劉弘(りゅうこう)だが、母は不詳。劉雄(りゅうゆう)は祖父。兄弟についてはよくわからない。

跡を継いだ劉禅(りゅうぜん)に加え、劉永(りゅうえい)と劉理(りゅうり)という息子を儲けた。劉封(りゅうほう)は養子。このほかにも、娘がふたりはいたことがうかがえる。

関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)らとともに黄巾(こうきん)討伐に参加。安喜県尉(あんきけんい)に任ぜられたのを手始めに、公孫瓚(こうそんさん)や陶謙(とうけん)らに助力して頭角を現した。

呂布(りょふ)や曹操(そうそう)とは対立と和解を繰り返し、袁紹(えんしょう)や劉表(りゅうひょう)のもとへ身を寄せた時期もあった。

荊州(けいしゅう)で劉表の世話になっていた207年に、三顧の礼をもって諸葛亮(しょかつりょう)を迎えたことが、その後の飛躍へつながった。

翌208年に劉表が死去すると、曹操軍の南下を避けて逃走。孫権(そんけん)と手を結び、赤壁(せきへき)の戦いでは側面から支援した。

211年に劉璋(りゅうしょう)の要請に応じて益州(えきしゅう)へ入ったものの、ほどなく両者の関係が悪化。214年5月に成都(せいと)を攻略した。

その後、219年に漢中王(かんちゅうおう)を自称し、221年には魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に対抗して帝位に即いた。

翌222年、夷陵(いりょう)一帯で孫権配下の陸遜(りくそん)に大敗。

翌223年4月、諸葛亮らに後事を託して永安(えいあん)で病死。

同年5月、帝位を継いだ劉禅から昭烈皇帝と諡(おくりな)された。

主な経歴

-161年(1歳)-
この年、誕生。幼くして父を亡くし、母とともに草履や筵(むしろ)を売って生計を立てた。

-175年(15歳)ごろ-
15歳の時、母の意向により遊学。一族の劉徳然(りゅうとくぜん)や遼西(りょうせい)の公孫瓚とともに、前の九江太守(きゅうこうたいしゅ)で同郡(涿郡)出身の盧植(ろしょく)の弟子になった。

遊学中は、劉徳然の父の劉元起(りゅうげんき)から学資の援助を受け、特に親密となった公孫瓚に兄事した。

-184年(24歳)-
3月(2月とも)、黄巾の乱が勃発。集めた仲間を引き連れて校尉(こうい)の鄒靖(すうせい)に従い、賊の討伐に加わる。このときの手柄により安喜県尉に任ぜられた。

その後、督郵(とくゆう。官名)が公務で安喜県にやって来た折、面会を断られたため客舎に押し入って縛り上げ、200回も杖で打ち据える。そして自分の官印を督郵の首に掛け、馬をつなぐ柱にくくりつけると、官職を捨てて逃亡した。

-?年(?歳)-
この年、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)が、都尉(とい)の毌丘毅(かんきゅうき)を丹楊(たんよう)へ遣わして兵を募集させた。

劉備は、毌丘毅に同行して下邳(かひ)で賊軍を討ち破り、下密県丞(かみつけんじょう)に任ぜられる。しかし、結局ここでも官を去ることになった。

-?年(?歳)-
この年、高唐県尉(こうとうけんい)から高唐県令(こうとうけんれい)に昇進。

その後、賊軍に討ち破られ、中郎将(ちゅうろうしょう)を務めていた公孫瓚のもとへ逃亡。公孫瓚の上表により別部司馬(べつぶしば)に任ぜられ、青州刺史(せいしゅうしし)の田楷(でんかい)とともに、冀州牧(きしゅうぼく)の袁紹に当たる。

たびたび戦功を立てたため、行平原県令(こうへいげんけんれい。平原県令代行)として試用された後、平原国相(へいげんこくしょう)に任ぜられた。

-193年(33歳)-
秋、曹操が徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙を攻める。陶謙の救援要請に応え、田楷とともに出陣。

このときは1千余りの私兵と、幽州(ゆうしゅう)の烏丸族(うがんぞく。烏桓族)に属する諸部族の騎兵を抱えていたが、さらに飢えた数千の民も配下に組み入れた。

徐州到着後、陶謙から丹楊の兵士4千を加えてもらい、田楷のもとを去り、陶謙に身を寄せることになった。

-194年(34歳)-
?月、陶謙の上表により豫州刺史(よしゅうしし)に任ぜられ、小沛(しょうはい)に駐屯。

?月、陶謙が病死。麋竺(びじく)・陳登(ちんとう)・孔融(こうゆう)らの勧めに従い、陶謙没後の徐州を引き継ぐ。

-196年(36歳)-
?月、袁術(えんじゅつ)の攻撃を盱眙(くい)や淮陰(わいいん)で阻む。

?月、曹操の上表により鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)に任ぜられ、宜城亭侯(ぎじょうていこう)に封ぜられる。

?月、袁術と対峙(たいじ)していた隙に、呂布に下邳を奪われる。このとき下邳の守将だった曹豹(そうほう)が寝返り、密かに呂布を迎え入れた。呂布に妻子を捕らえられたため、軍勢を海西(かいせい)へ転進。

?月、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)が徐州や揚州(ようしゅう)を荒らしたため、これを迎撃してことごとく斬り殺す。

?月、呂布と和睦し、妻子を返してもらう。下邳の守りは関羽に託す。

?月、小沛へ戻り、再び1万余の兵を集める。しかし、これを問題視した呂布に攻められて敗走。曹操のもとに身を寄せる。

?月、曹操から厚遇され、豫州牧(よしゅうぼく)に任ぜられる。

ここは、194年に豫州刺史に任ぜられたこととの兼ね合いがよくわからなかった。

-198年(38歳)-
9月、呂布配下の高順(こうじゅん)と張遼(ちょうりょう)に、沛城を攻められて敗れる。またも妻子が捕らえられ、呂布のもとへ送られた。このとき曹操は夏侯惇(かこうとん)を救援に差し向けたものの、間に合わなかった。

?月、曹操とともに下邳の呂布を包囲。曹操が、生け捕りにした呂布を処刑したため、劉備は再び妻子を取り戻すことができた。

?月、曹操に付き従って許(きょ)へ向かう。そして曹操の上表により、左将軍(さしょうぐん)に任ぜられる。

-199年(39歳)-
?月、袁術が徐州を通って、北方の袁紹のもとへ向かう。曹操の意向を受け、朱霊(しゅれい)と路招(ろしょう)をひきいて迎撃にあたる。

6月、徐州に到着する前に袁術が病死。

?月、朱霊らが許へ帰還した後、徐州刺史(じょしゅうしし)の車冑(しゃちゅう)を殺害。関羽を下邳に残して小沛へ戻る。

?月、昌霸(しょうは。昌豨〈しょうき〉)が曹操に背き、数万の軍勢とともに味方に付く。

?月、孫乾(そんけん)を袁紹のもとに遣わし、連合の承諾を得る。

?月、曹操配下の劉岱(りゅうたい)と王忠(おうちゅう)の軍勢を撃退する。

-200年(40歳)-
1月、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の董承(とうしょう)らが献帝(けんてい)の密詔を受け、曹操の殺害を計ったものの謀議が漏れる。このとき徐州にいたため劉備は無事だった。

曹操は、謀議に加わった者と三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)を皆殺しにする。この中には、董承の娘で懐妊中だった董貴人(とうきじん)も含まれていた。しかし献帝の助命嘆願もむなしく、董貴人も処刑された。

?月、曹操の攻撃を受けて敗れ、袁紹のもとに身を寄せる。この際、妻子に加え、関羽も曹操に捕らえられた。

?月、曹操と袁紹が官渡(かんと)で対峙を続けていたとき、汝南(じょなん)で劉辟(りゅうへき)らが曹操に背き、袁紹に呼応する。

劉備は、袁紹の命を受けて軍勢をひきい、劉辟らとともに許の近郊を荒らす。そのうちに関羽が戻ってきた。

?月、曹操配下の曹仁(そうじん)の攻撃を受け、いったん袁紹のもとへ戻る。

?月、袁紹のもとから脱出を図り、袁紹に劉表との連合を進言。袁紹の許しを得てもとの部下をひきい、汝南で龔都(きょうと。共都)らと合流。数千の軍勢となる。

?月、曹操配下の蔡陽(さいよう。蔡揚)の軍勢を撃退し、蔡陽も討ち取る。

-201年(41歳)-
9月、曹操が南下。曹操自身が出てきたと聞き、麋竺と孫乾を劉表のもとに遣わして挨拶させる。ほどなく劉表から上客の礼をもって荊州へ迎えられ、兵を増やしてもらい、新野(しんや)に駐屯することになった。

-?年(?歳)-
この年、劉表の命を受け、博望(はくぼう)で夏侯惇と于禁(うきん)の軍勢を撃破した。

-207年(47歳)-
?月、曹操が烏丸討伐に向かった際、劉表に、許を急襲するよう説いたものの容れられず。

?月、三顧の礼が実を結び、諸葛亮が出廬。

この年、夫人の甘氏(かんし)が劉禅を生んだ。

-208年(48歳)-
8月、劉表が死去。跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は曹操に降伏したが、曹操が宛(えん)まで来たところで劉備は事態を知り、樊(はん)を出て当陽(とうよう)へ逃げる。途中で襄陽(じょうよう)に立ち寄った際、劉琮の側近や荊州の多くの民が帰順した。

?月、関羽に数百隻の船をひきいさせ、付き従う10余万の民の一部を分乗。江陵(こうりょう)で落ち合う手はずを整える。

?月、当陽の長坂(ちょうはん)で曹操に追いつかれ、漢津(かんしん)まで逃げたところで関羽の船団と合流。何とか沔河(べんが)を渡った。

?月、江夏太守(こうかたいしゅ)の劉琦(りゅうき)がひきいる1万余の軍勢と合流した後、ともに夏口(かこう)へ入る。

?月、諸葛亮を遣わして孫権と手を結ぶ。孫権は、周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)らの水軍数万を送り込み、赤壁で曹操軍を大破した。

?月、孫権の軍勢と水陸並行して進み、曹操軍を追って南郡(なんぐん)に到着。曹操は曹仁に南郡を守らせ、自身は許へ引き揚げた。

-209年(49歳)-
?月、上表して劉琦を荊州刺史(けいしゅうしし)とする一方、劉備は南部4郡の討伐に赴く。

武陵太守(ぶりょうたいしゅ)の金旋(きんせん)、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の韓玄(かんげん)に加え、桂陽太守(けいようたいしゅ)の趙範(ちょうはん)、零陵太守(れいりょうたいしゅ)の劉度(りゅうたく)を降す。

また、廬江郡(ろこうぐん)の雷緒(らいしょ)らが数万の配下をひきいて帰順した。

?月、劉琦が病死。群臣に推されて荊州牧(けいしゅうぼく)となり、公安(こうあん)を州都とする。

?月、孫権と京城(けいじょう)で会見し、妹を娶(めと)る。

-211年(51歳)-
この年、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋の求めに応じ、数万の軍勢をひきいて益州へ入る。荊州には諸葛亮や関羽らを残した。

劉璋から行大司馬(こうだいしば。大司馬代行)・司隷校尉(しれいこうい)に推挙され、代わりに劉璋を行鎮西将軍(こうちんぜいしょうぐん。鎮西将軍代行)・益州牧に推挙する。

劉璋に兵を増強してもらったうえで、張魯(ちょうろ)攻めにあたることになり、同時に白水(はくすい)の駐屯軍の指揮も任される。劉備軍は3万余まで増え、戦車・甲冑(かっちゅう)・武器・資材も豊富になった。この年のうちに劉璋は成都へ帰る。

劉備は北方の葭萌(かぼう)へ向かったが、すぐに張魯を討伐しようとはせず、恩徳を施して人心の収攬(しゅうらん)に努めた。

-212年(52歳)-
10月、曹操が孫権討伐に向かったため、孫権の救援要請が届く。これを口実に、劉璋から1万の兵と軍需物資を借りて東へ向かおうとしたが、劉璋は4千の兵しか出さず、提供された軍需物資も要求の半分にすぎなかった。

この年、劉備と内通していた劉璋配下の張松(ちょうしょう)が斬られたことで、劉璋と不和になる。

この年、白水都督(はくすいととく)の楊懐(ようかい)を斬り、黄忠(こうちゅう)と卓膺(たくよう)に進軍を命じた。

-213年(53歳)-
この年、涪(ふう)を攻略して緜竹(めんちく)へ迫る。緜竹の指揮を執っていた劉璋配下の李厳(りげん)が降ったことで、劉備軍は増強された。その後、諸将を各地に遣わして属県を平定。

続いて荊州から諸葛亮・張飛・趙雲(ちょううん)らを呼び寄せ、白帝(はくてい)・江州(こうしゅう)・江陽(こうよう)を平定させた。

さらに軍勢を進めて雒(らく)を包囲。ところが劉璋の息子の劉循(りゅうじゅん)に手を焼き、戦いが長引いてしまう。

-214年(54歳)-
夏、ようやく雒を攻略。

5月、軍勢を進めて成都を包囲。数十日後、劉璋は城を出て降伏。これにより劉備は益州牧も兼ねることになり、劉璋の配下を多数登用した。

この年ごろ、妻の孫氏(そんし)が兄の孫権のもとへ帰る。そのため群臣の勧めに従い、新たに呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)の妹の呉氏(ごし)を娶った。

-215年(55歳)-
この年、孫権と荊州の返還問題でもめる。だが、曹操が張魯を降して漢中を平定したこともあり、孫権と荊州を分割統治することで合意。江夏・長沙・桂陽の3郡を返還し、劉備は南郡・零陵・武陵の3郡を統治することが認められた。

-218年(58歳)-
この年、諸将をひきいて漢中へ進軍。将軍の呉蘭(ごらん)や雷銅(らいどう)らを武都(ぶと)へ送り込んだものの、曹操軍によって全滅させられる。劉備は陽平関(ようへいかん)に駐留し、夏侯淵(かこうえん)や張郃(ちょうこう)らとにらみ合う。

-219年(59歳)-
春、陽平関から南下して沔水(べんすい)を渡り、定軍山(ていぐんざん)に軍営を築く。ほどなく攻め寄せた夏侯淵を黄忠が討ち取る。

夏、長安(ちょうあん)から南下した曹操が撤退し、劉備は漢中を手中に収める。劉封・孟達(もうたつ)・李平(りへい。李厳)らを上庸(じょうよう)へ遣わし、申耽(しんたん)を攻めさせる。

秋、群臣の推挙を受けて漢中王を称する。

11月、関羽が呂蒙(りょもう)らの急襲を受け、荊州を失う。

12月、関羽が孫権配下の馬忠(ばちゅう)に捕らえられ、関平(かんぺい)らとともに処刑される。

-220年(60歳)-
1月、曹操が病死し、曹丕が跡を継ぐ。

10月、曹丕が献帝の禅譲を受けて帝位に即き、「黄初(こうしょ)」と建元。

?月、献帝が曹丕に殺害されたと伝わったため喪を発し、孝愍皇帝(こうびんこうてい)の諡号(しごう)を奉る。

実際のところ劉協(りゅうきょう。献帝)は存命で、これは誤報だった。

-221年(61歳)-
4月、群臣の推挙を受けて帝位に即く。

4月、大赦を行い、「章武(しょうぶ)」と改元。諸葛亮を丞相(じょうしょう)に、許靖(きょせい)を司徒(しと)に、それぞれ任じ、百官を置く。

また、宗廟(そうびょう)を建立し、高皇帝(こうこうてい。劉邦〈りゅうほう〉)以下を併せて祭る。

5月、呉氏を皇后に、劉禅を皇太子に、それぞれ立てる。

6月、息子の劉永を魯王(ろおう)に、劉理を梁王(りょうおう)に、それぞれ封ずる。

7月、車騎将軍の張飛が側近に殺害される。

7月、大軍をひきいて自ら孫権討伐に向かう。将軍の呉班(ごはん)と馮習(ふうしゅう)が巫(ふ)から出て、孫権配下の将軍の李異(りい)を撃破し、蜀軍は秭帰(しき)に駐留した。

8月、孫権が曹丕に降り、大将軍に任ぜられたうえ、呉王(ごおう)に封ぜられる。また、九錫(きゅうせき)も加えられる。

-222年(62歳)-
1月、将軍の呉班と陳式(ちんしょく)の水軍が夷陵に駐屯し、秭帰の蜀軍と長江(ちょうこう)の東西の岸を挟んで陣取る。

2月、秭帰から夷道(いどう)の猇亭(おうてい)へ進出。侍中(じちゅう)の馬良(ばりょう)を武陵へ遣わし、五谿(ごけい)の蛮族を慰撫(いぶ)させる。

?月、鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)の黄権(こうけん)が江北(こうほく)の諸軍を指揮し、夷陵道で孫権軍と対峙。

6月、猇亭で陸議(りくぎ。陸遜)に大敗。馮習や張南(ちょうなん)ら多くの将軍を失う。その後、秭帰で離散した兵を収容し、船を捨てて陸路で魚腹(ぎょふく)まで戻る。魚腹を永安と改称。

8月、巫まで戻る。

10月、丞相の諸葛亮に詔(みことのり)を下し、成都に南郊北郊(天地を祭る場所)を造営させる。

10月、孫権の和睦要請に応じ、太中大夫(たいちゅうたいふ)の宗瑋(そうい)を遣わして返事を伝えさせる。

12月、漢嘉太守(かんかたいしゅ)の黄元(こうげん)が謀反を起こす。

-223年(63歳)-
2月、丞相の諸葛亮を成都から召し寄せる。

3月、黄元が軍勢を進め、臨邛県(りんきょうけん)を攻める。将軍の陳曶(ちんこつ)に討伐を命じ、捕らえた黄元を成都で処刑。

?月、病が重くなったため、丞相の諸葛亮に遺子を託す。尚書令(しょうしょれい)の李厳にも補佐を命ずる。

4月、永安宮(えいあんきゅう)で病死。

管理人「かぶらがわ」より

劉備は、前漢の景帝(けいてい)の息子である、中山靖王(ちゅうざんせいおう)の劉勝(りゅうしょう)の子孫を称していました。

ですが、劉勝は120余人もの子を儲けたと伝わっており、しかも劉備より300年以上も前の人物です。でたらめとまでは言えませんけど、その子孫を称した劉姓の人物は、いったいどれほどいたことでしょう。

『三国志演義』では善人の見本のように描かれていましたが、正史『三国志』からそういったイメージは受けません。もちろん、正史『三国志』は魏寄りではありますが――。

幾人もの群雄のもとを渡り歩き、あの曹操さえ利用してしまうのですから、相当なくせ者ぶりがうかがえます。

また、仁君だと言われていたわりに、曹丕に禅譲した劉協(献帝)が存命中に、蜀で帝位に即いたことなどは、筋が通っていないとも思います。

漢室の末裔(まつえい)を称する以上、その再興を志す気持ちはわかります。けれど、劉備が曹氏に抵抗し続けた結果、全土の統一までに余分な血が流れたという側面もあるのではないかと感じます。

劉備については正史『三国志』の記事を読み、曹操とは別の意味で見方が一変しました。

それでも、若いころに出会った関羽や張飛に加え、趙雲、さらに諸葛亮まで心服させてしまうのですから、希代のカリスマ性を備えていたのは確かでしょう。

もし曹操・劉備・孫権のうちのひとりに仕えるとしたら? この答えには、その人の考え方が出ると思います。私の場合は、やっぱり劉備ですかね(これだけ言っておきながら、曹操じゃないのか)。

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