韓浩(かんこう)

【姓名】 韓浩(かんこう) 【あざな】 元嗣(げんし)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第138話で初登場。
【演義】 第039回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・夏侯惇伝(かこうとんでん)』に付された「韓浩伝」あり。

曹操(そうそう)の信頼が篤い近衛軍司令官。屯田の実施も進言

父は不詳だが、母は杜氏(とし)。養子の韓栄(かんえい)は跡継ぎ。

韓浩は史渙(しかん)とともに、忠義と武勇によって名があった。韓浩は「中護軍(ちゅうごぐん)」まで、史渙は「中領軍(ちゅうりょうぐん)」まで、それぞれ昇り、近衛軍の司令官となり「列侯(れっこう)」に封ぜられた。

韓浩は「万歳亭侯(ばんざいていこう)」に封ぜられたようだが、史渙のほうはイマイチはっきりしない。

後漢(ごかん)末に戦乱が起こると、韓浩の住む県で山賊が横行。そこで彼は徒党を集めて県を守ろうとした。

190年、韓浩は河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)から「従事(じゅうじ)」に任ぜられ、軍勢をひきいて盟津(もうしん。孟津)へ向かい、董卓(とうたく)と戦う。

董卓は、韓浩の舅(おじ。母の兄弟)で河陰県令(かいんけんれい)の杜陽(とよう)を捕らえることで韓浩を配下に招こうとしたが、彼はこれを拒否した。

韓浩はこの話を聞いた袁術(えんじゅつ)に評価され「騎都尉(きとい)」に任ぜられる。のち夏侯惇の求めに応じて会見すると、ここでも大いに評価され、兵をひきいて付き従うことになった。

194年、曹操が再び陶謙(とうけん)討伐に赴いた際、張邈(ちょうばく)と弟の張超(ちょうちょう)が陳宮(ちんきゅう)らと結託して背く。張邈らは呂布(りょふ)を「兗州牧(えんしゅうのぼく)」として迎えた。

夏侯惇は曹操の家族がいる鄄城(けんじょう)へ向かったものの、途中で呂布と出くわしたため交戦。呂布は引いて濮陽(ぼくよう)へ入り、夏侯惇の輜重(しちょう)を奪う。

この後、呂布は部将を派遣し降伏すると見せかけ、夏侯惇を人質に取り財宝を要求。このとき韓浩は、人質の夏侯惇を案じて賊を大目に見ることはないと言い切ることで、結果的に夏侯惇の救出に成功した。

196年、韓浩は棗祗(そうし)らとともに、急いで屯田を行うよう進言。曹操はこの意見を喜び、韓浩を「護軍」に昇進させた。

207年、曹操の烏丸(うがん)討伐に従軍。史渙らとともに中軍を指揮し、柳城(りゅうじょう)の攻略に貢献する。それまでの官号を「中護軍」に改められたうえ、配下の「長史(ちょうし)」や「司馬(しば)」が置かれることになった。

215年、曹操の張魯(ちょうろ)討伐に従軍。11月に張魯が降ると、知略のある韓浩を後に残し、諸軍の総司令官に任じてほしいとの声が上がった。しかし曹操は、「どうして護軍(韓浩)がないわけにいこうぞ」と言い、一緒に鄴(ぎょう)へ帰った。

韓浩が死去(時期は不明)すると、曹操は彼の死を悼み残念がったという。息子がなかったため養子の韓栄が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の記述はごく短く、上で挙げた韓浩の経歴については、ほぼ裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によるものです。

曹操の身近に仕え、篤く信頼されていた様子がうかがえました。それに加えて屯田の進言はポイントが高く、こちらも見逃せない功績だと思います。

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