吉川『三国志』の考察 第138話 「臨戦第一課(りんせんだいいっか)」

しばらく許都(きょと)で職制改革などに取り組んでいた曹操(そうそう)だったが、新野(しんや)の劉備(りゅうび)が諸葛亮(しょかつりょう)を軍師(ぐんし)に迎え、近ごろ兵馬の調練に励んでいることを聞く。

そこでこの邪魔石を取り除いておくべく、夏侯惇(かこうじゅん)を大将とし、于禁(うきん)と李典(りてん)を副将に添えた10万の軍勢を差し向ける。

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第138話の展開とポイント

(01)許都(きょと)

この当時、曹操(そうそう)は大いに職制改革を行った。常に内政の清新を図り、有能な人材はどしどし登用して臨戦態勢を整えていた。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第39回)では、ここで曹操が三公(太尉〈たいい〉・司徒〈しと〉・司空〈しくう〉)の官職を廃止し、自ら丞相(じょうしょう)の職をもってこれらを兼任したとある。この件に吉川『三国志』は触れていなかったが、『三国志演義』ともども、だいぶ前から曹操のことを丞相と呼んでいる点との兼ね合いが気になった。

毛玠(もうかい)を東曹掾(とうそうのえん)に、崔琰(さいえん)を西曹掾(せいそうのえん)に、それぞれ任じたのもこのころである。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると「東曹掾・西曹掾はいずれも三公府の属官で人事をつかさどる。俸禄は比400石(せき)」という。

分けて出色な人事と評されたのは、主簿(しゅぼ)の司馬朗(しばろう)の弟で、河内(かだい)温(うん)の人、司馬懿(しばい)が文学掾(ぶんがくのえん)として登用されたことだった。

新潮文庫の註解によると「(文学掾は)郡国の属吏で郡国の教育に従事した」という。

その司馬懿はもっぱら文教方面や選挙の吏務にあったので、文官の中には異色を認められていたが、まだ軍政方面には才略の聞こえもなかった。やはり軍部に重きをなしているのは、依然として夏侯惇(かこうじゅん)・曹仁(そうじん)・曹洪(そうこう)などであった。

ある日、南方の形勢についての軍議があったとき、夏侯惇は、新野(しんや)の劉備(りゅうび)が諸葛亮(しょかつりょう)を師とし、しきりに兵馬を調練していると指摘。まずはこの邪魔石を取り除き、しかる後に次の大計に臨むのが順序だと述べる。

諸将の中には異論を抱いているような顔色も見えたが、曹操がすぐ「その儀、よろしかろう」と言ったので、即座に劉備討伐が決定した。

夏侯惇は総軍の都督(ととく)に任ぜられ、于禁(うきん)と李典(りてん)を副将とする10万の軍団が編制される。この軍団は吉日を選んで発向することになった。

井波『三国志演義(3)』(第39回)では、副将は于禁・李典・夏侯蘭(かこうらん)・韓浩(かんこう)の4人。

荀彧(じゅんいく)は二度ばかり曹操の前で異論を唱え、諸葛亮という者は尋常一様な軍師(ぐんし)ではないようだと言い、軽々しく劉備に当たってはならないと諫める。

横合いから徐庶(じょしょ)も発言し、諸葛亮の才を絶賛。自分を蛍とすれば、彼は月のようなものだと評する。

夏侯惇は荀彧の説を笑い、徐庶の言葉を叱って大言を吐く。曹操はその言葉を壮なりとして、出陣の日には自ら府門に馬を立て10万の将士を見送った。

(02)新野

一方で新野の内部では、諸葛亮が迎えられてからちょっとおもしろくない空気が醸されていた。

若輩の諸葛亮を譜代の上席に据え、それに師礼を執られるのみか、主君には彼と起居をともにし、寝ては牀(しょう。寝台)を同じくして睦(むつ)み、起きては卓をひとつにして箸(はし)を取っておるなど、ご寵用も度が過ぎる、という一般の嫉視(しっし)だった。

関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)のふたりも、心のうちで喜ばないふうが顔にも見えていたし、ある時は劉備に向かい、無遠慮に不平を鳴らしたこともある。

だが、劉備はふっくらと笑いを含み、「わしが孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)を得たことは、魚が水を得たようなものだ」と言った。

諸葛亮はかねてから新野の戸籍簿を作り、百姓の壮丁(成年に達した一人前の男)を徴募していた。数千の城兵のほかに農民兵の組織を計画していたのである。

翌日から自ら教官となり、3千余の農民兵を調練し始めた。歩走、飛伏、一進一退、陣法の節を教え、克己の精神を叩(たた)き込み、刺撃や用剣の術まで習わせた。ふた月も経つと、3千の農民兵はよく節を守り、彼の手足のごとく動くようになる。

かかる折に、夏侯惇を大将とする10万の軍勢が新野へ南下してくると聞こえてきたのだった。

恐怖する劉備に、張飛が面当てを言った。

「大変な野火ですな。水を向けて消したらいいでしょう」

劉備が諸葛亮に対策を尋ねると、この際の憂いは外よりも内にあると言われる。おそらくは関羽と張飛が私の命に服さないだろうと。軍令が行われなければ敗れることは必然だとも。

そこで劉備は、自分の剣と印を諸葛亮に貸したうえ諸将を呼ぶ。諸葛亮は軍師座に腰を据え、劉備は中央の床几(しょうぎ)に寄った。

諸葛亮は厳然と立ち上がり、味方の配陣を命ずる。まずは新野から90里(り)の博望坡(はくぼうは)の険に触れ、左には予山(よざん。豫山)という山が、右には安林(あんりん)という林が、それぞれあることを伝える。今回はここが戦場になるとも。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると「博望坡は荊州(けいしゅう)南陽郡(なんようぐん)の博望県の南にあるとされる。なお、この地名は後漢(ごかん)・三国時代にはなかった」という。

関羽には1,500の兵をひきい予山に潜むよう命ずる。敵軍が半ば通過したとき、後陣を討ち輜重(しちょう)を襲い、火をかけて焚殺(ふんさつ)せよと。

張飛には同じく1,500の兵をひきい、安林の後ろの谷間に隠れるよう命ずる。南に火が上がるのを見たら、無二無三に敵の中軍や先鋒に当たって粉砕せよと。

また関平(かんぺい)と劉封(りゅうほう)には、500ずつの兵をひきいて硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を携え、博望坡の両面から火を放ち敵を包むよう命ずる。

そして趙雲(ちょううん)には先手を命ずるが、これは偽って負けて逃げるもので、敵を深く誘い込むことが任務だった。

このほかすべての手分けを命じ終わると、張飛は待っていたように大声で言う。

「いや、軍師のお指図、いちいちよく相わかった。ところで一応伺っておきたいが、軍師自身はいずれの方面に向かいたまうか?」

すると諸葛亮は、「わが君には一軍をひきい、先手の趙雲と首尾の形を取り、すなわち敵の進路に立ちふさがる」と応ずる。

張飛が、わが君のことではなく、ご辺(きみ)はどこで合戦をする覚悟かと聞いているのだと怒ると、諸葛亮は「かく申す孔明は、ここにあって新野を守る」と答える。

張飛は大口を開けて笑い、手を打ってみなにも笑いを促す。諸葛亮はその爆笑を一喝に打ち消し、(主君の)剣と印がここにあると言い、命に背く者や軍紀を乱す者は斬ると叱りつけた。

張飛は反抗しかけたが、劉備になだめられ不承不承出ていく。あざ笑いながらの出陣だった。

(03)博望坡

建安(けんあん)13(208)年の秋7月、夏侯惇は10万の大軍をひきいて博望坡まで迫る。兵糧や輜重などを主とした後陣の守りに于禁と李典を置き、自身は副将の夏侯蘭と護軍(ごぐん)の韓浩を連れ、さらに進んだ。

新潮文庫の註解によると「(護軍とは)方面軍司令官である将軍(しょうぐん)に随行し、その監察を行う官」という。

そして軽騎の将を数十人伴い、敵の陣容を一眄(いちべん)すべく高地へ駆け上っていく。

ここでの一眄は一望という意味合いで使われていると思うが、こういった用法もあるのかよくわからなかった。

夏侯惇は敵の布陣を見ると馬上で大笑いした。すでに敵を呑んだ夏侯惇。先手の兵に向かって一気に突き崩せと号令をかけ、自身も一陣に駆け出す。

趙雲もまた彼方から馬を飛ばし、夏侯惇のほうへ向かっていく。だが、十数戟(げき)を交えると、たちまち偽って逃げ出した。これを夏侯惇が追い続けると、韓浩は伏兵があるに違いないと読み、深入りしないよう諫める。

それでも夏侯惇は一笑に付し、いつか博望坡を踏んでいた。そこへ劉備軍の一陣が現れるが、夏侯惇はその奮迅に拍車をかける。気負い抜いた彼の麾下(きか)は、その夜のうちにも新野へ迫り、一挙に敵の本拠を抜いてしまうばかりな勢いだった。

劉備も一軍をひきいて力闘に努めたが、もとより諸葛亮から授けられた計のあること。防ぎかねた態をして、趙雲とひとつになり壊走しだす。

日が没したころ、後陣の于禁と李典は夏侯惇から2里余りも離れていた。ここで李典は兵法の初学を思い出し、火計を受ける可能性があることに気づく。話を聞いた于禁も懸念を示し、李典に後陣を固め四方に備えているよう言い、ひとりで夏侯惇に追いつき彼の言葉を伝える。

夏侯惇もにわかに悟り、引き返すよう命ずるが、馬を立て直している暇(いとま)もなく四方から火攻めを受けた。

夏侯惇自身も徒歩(かち)となり、身ひとつで逃げ出すのがやっと。後陣の李典は前方の火光を見て急に救いに出ようとしたものの、突如、前に関羽の一軍があって道をふさがれる。

退いて兵糧部隊を守ろうとすれば、そこはすでに張飛に焼き払われており、後方から挟撃された。討たれる者や焼け死ぬ者は数知れない。

夏侯惇・于禁・李典らの諸将は輜重まで焼かれたのを見て、峰越しに逃げ延びる。夏侯蘭は張飛に出会い首を搔(か)かれ、韓浩は炎の林に追い込まれて全身に大火傷(おおやけど)を負った。

戦(いくさ)は暁になってやむ。関羽と張飛は軍を収め、意気揚々と夕べの戦果を見回っていた。ふたりが新野のほうへ引き揚げていくと、彼方から諸葛亮の車が近づいてくる。

思わず馬を下りてしまうふたり。車の前に拝伏して夜来の大勝を報告すると、諸葛亮はねぎらいの言葉をかけた。

やがて、趙雲・関平・劉封らもおのおの兵をまとめて集まる。関平は敵の兵糧車70余輛(りょう)を分捕り、初陣の意気軒昂(けんこう)たるものがあった。

さらに白馬にまたがった劉備の姿が見えると、諸軍は声を合わせ勝ち鬨(かちどき)を上げながら迎える。みな喜び勇んで新野へ凱旋した。

(04)新野

城中に戻って数日後、劉備は諸葛亮に向かいあらゆる喜びと称賛を呈していたが、彼は眉(まゆ)を開くふうもない。必定、この次には曹操自身が攻め下ってくるという。諸葛亮は、新野は領界も狭く、城の要害は薄弱で頼むに足りないと言った。

管理人「かぶらがわ」より

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吉川『三国志』 (06) 赤壁の巻
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