吉川『三国志』の考察 第228話「関平(かんぺい)」

樊城(はんじょう)の包囲を続けていた関羽(かんう)のもとに、曹操(そうそう)の援軍が迫っているとの知らせが届く。

関羽が迎撃に向かおうとすると、養子の関平(かんぺい)が、自分を代わりに遣わしてほしいと強く請う。許しを得た関平は、敵の先鋒の龐徳(ほうとく。龐悳)に挑むが――。

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第228話の展開とポイント

(01)樊城の城外

樊城の包囲は完成した。水も漏らさぬ布陣である。関羽は中軍に座し、夜中頻々と報じてくる注進を聞いていた。

曰(いわ)く、魏(ぎ)の援軍数万騎。曰く、大将は于禁(うきん)、副将は龐徳(龐悳)。さらに魏王(ぎおう。曹操)直属の七手組(ななてぐみ)の7人の大将も、おのおの士馬精鋭を引っ提げ、旋風のごとく進軍中と。

また言う。先鋒の龐徳は、関羽の首を挙げずんば帰らずと、白き旗に「必殺関羽」と書き、軍卒に柩(ひつぎ)を担がせ、すでにここから30里余りの地に陣して螺鼓(らこ)銅鉦(どうしょう)を鳴らし、気勢ものすごきばかりにて候(そうろう)と。

これを聞くと、ただちに関羽は駒を寄せてまたがり、養子の関平を呼んで言った。

「父が龐徳と戦う間、汝(なんじ)は油断なく樊城を突け。魏の援軍、城外30余里の彼方(あなた)に来たれりと知れば、城兵の気はとみに高まり、隙を見せると反撃してくるぞ」

関平は、父の乗馬の口輪をつかむ。その前に立ちふさがり、まずは自分を遣わしてほしいと言った。

許しを得た関平は、たちまち馬上の人となり、部下の一隊を差し招くと、凜々(りんりん)と先に立って駆け出す。

(02)樊城の郊外

やがて関平の前方に、雲か霞(かすみ)を引いたように、敵の第一陣線が望まれた。手をかざして見れば、皁(くろ)い旗には「南安之龐徳(なんあんのほうとく)」と印し、白い旗には「必殺関羽」と書いてある。

原文「皀い旗」だが誤植と思われる。「皁い旗」もしくはその俗字である「皂い旗」とすべきだろう。手元にある3種類の吉川『三国志』を見比べてみると、新潮社版と講談社版(新装版)では「皀い旗」となっていたが、古いほうの講談社版では「皂い旗」となっていた。古いほうというのは、1990年7月20日に第19刷が発行されたもので、1981年2月15日に第1刷が発行されたもの。

関平は駒をとどめ、大音で龐徳を呼ぶ。

龐徳が「あの青二才は何者か?」と左右に尋ねても、誰も知る者はない。そこで陣列を開かせて名を問えば、関羽の養子の関平との答え。龐徳は関羽を出すよう言って辱めた。

激した関平は、馬もろとも龐徳に飛びかかる。刀を舞わせてよく戦ったが、勝負はつかない。ついに相引きの形で引き分かれたが、さすがに若くて猛気な関平も、肩で大息をつきながら満身に湯気を立てていた。

関羽は合戦の様子を聞くと、次には必ず関平が負けると思ったらしく、翌朝、樊城攻めは部下の廖化(りょうか)に預け、自分は関平の陣へ来てしまった。

関羽が両軍の間に赤兎馬(せきとば)を進めると、一騎で龐徳も馬を向けてくる。互いに思うところを述べ合った後、ついにふたりは刃を交えた。

戦えば戦うほど、両雄とも精気を加えるようなので、双方の陣営にある将士はみな酔えるがごとく手に汗を握っていた。

猛戦が数百合を数えたころ、突然、蜀陣で金鼓を鳴らすと、それを機に魏のほうでも引き揚げの鼓を叩き、関羽も龐徳も同時に矛を収め、おのおのの営所へ引き退いた。

本陣で休息した関羽は龐徳の力量を認め、わが相手として決して恥ずかしくない敵だと話す。一方の龐徳も味方の内へ帰ると、口を極めて関羽の勇を正直にたたえていた。

翌日、龐徳は再び馬を乗り出し、関羽に挑みかけた。関羽も駒を進める。戦いが50余合に至り、龐徳は急に馬を巡らせて逃げかけた。関羽は偽計と察しながらも追いすがる。

すると、不意に陣中から馬を飛ばしてきた関平が注意を促す。だが、龐徳の放った矢は顔を狙って飛び、関羽は左臂(ひだりひじ)を曲げて受けた。関平は馬を寄せ、関羽を救って戻ろうとしたものの、龐徳が弓を投げ、刀を舞わせて躍りかかる。

蜀陣は鼓を打って動揺。魏陣も突貫し、たちまち双方は乱軍状態になった。その間をくぐり、関平は無二無三に父を助けて味方の内へ駆け込む。

このとき魏の中軍では、盛んに退鉦(ひきがね)を打ち叩いていた。龐徳は意外に思ったが、何か後方に異変でも起こったのではないかと、ともかくあわてて軍を収めた。

(03)樊城の郊外 于禁の本営

戻った龐徳が于禁に尋ねると、その答えは心外極まるものだった。

「いや。別に何が起こったというわけではないが、都(鄴都〈ぎょうと〉?)を発つとき、特に魏王から戒めのお使者を派せられ、関羽は知勇の将、尋常(よのつね)の敵と思うて侮るなと、くれぐれ念を押された。ゆえに万一、彼の奸計(かんけい)に陥ってはと存じ、部下の者の深入りを止めたまでのことである」

曹操が戒めの使者を遣わしたことについては、前の第227話(04)を参照。ただし、そこでは戒めの対象が于禁ではなく龐徳だった。

龐徳は歯ぎしりした。于禁のために今日の勝機を逸しなければ、関羽の首を挙げ得たものをと、繰り返してやまなかった。

また部将の間には、それは于禁が自分の功を龐徳に奪われんことを恐れて、急に退鉦を鳴らさせたものだと、穿(うが)った説をなす者もあった。

(04)樊城の郊外 関羽の本営

関羽の傷は浅いらしいが、なかなか薬の効き目は顕れない。関平らは努めてなだめ、彼が短慮に逸(はや)らないよう注意し、陣外の矢たけびなどもなるべく耳に入れなかった。

それをよいことに、敵はほとんど毎日寄せてくる。龐徳は何とかして関羽を誘い出さんものと、日々兵をして罵り辱めた。

(05)樊城の郊外 于禁の本営

龐徳が于禁にこう献策する。

「どうしても誘いに乗ってきません。このうえは策を変え、わが先鋒と中軍が一手となって関羽の陣を突破し、一挙に樊城の味方と連絡を遂げてはどうでしょう?」

だが于禁は、これに対しても魏王の訓戒を繰り返す。関羽ほどの者が、正面から突破されるような陣構えをしているわけはないと、容易に賛成する気色もない。

そればかりか、例の七手組の諸将を樊城の北10里の地点に移し、于禁自身は中軍をもって正面の大路に進撃を構え、龐徳の手勢はしごく出足の悪い、山の後ろへ回してしまった。

管理人「かぶらがわ」より

関羽を相手に激闘を繰り広げ、ついには矢傷を負わせた龐徳。『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・龐悳伝)によると、龐徳は曹仁(そうじん)に従って南下し、樊に駐屯したということです。で、関羽と戦ったとき、その額に矢を命中させたのだと。

あれ、左臂じゃないの? という感じですけど、この後の展開を見ていくと納得。額に矢(しかも毒矢)を受けていたら、さすがの華陀(かだ)でも見せ場はなさそう……。

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