吉川『三国志』の考察 第152話 「群英の会(ぐんえいのかい)」

曹操(そうそう)が新たに整備したという要塞を、ある夜ひそかに探りに行く周瑜(しゅうゆ)。彼はその規模や出来栄えに驚かされる。

翌日、心配の種が増えた周瑜の軍営を、不意に旧友の蔣幹(しょうかん)が訪ねてくる。すぐに周瑜は来意を見抜き――。

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第152話の展開とポイント

(01)曹操(そうそう)の本営

蔡瑁(さいぼう)と張允(ちょういん)は曹操の前に出て百拝し、こたびの不覚を陳謝する。

この時の曹操の居所がよくわからなかった。

だが曹操は、要は将来にあると言い、ふたりをとがめない。すると蔡瑁は敗因を自己分析し、攻撃をやめ守備の態を取るよう献策。

渡口(わたし)を固めて要害を擁し、水中には遠くにわたって水寨(すいさい)を構え、一大要塞(ようさい)とする。そして、おもむろに敵を誘いその虚を突き、疲れを待って一挙に下江を図るのだと。

曹操は任せることにし、さっそくふたりは軍の再整備に取りかかった。長江(ちょうこう)の北岸の要地にあらゆる要塞設備を施し、水上には42座の水門と延々たる寨柵(さいさく)を結い回す。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第45回)では水門の数は24とある。

小舟はすべて内に置き交通や連絡の便りとし、大船は寨外に船列を敷かせて一大船陣を常設。夜に入ると、約300余里(り)にわたる要塞の水陸には篝(かがり)や煙火が幾万幾千灯も燃え輝き、一天の星斗を焦がす。兵糧や軍需を運搬する車馬の響きも絶えない。

(02)長江の南岸 周瑜(しゅうゆ)の本営

あるとき周瑜は、上流にあたる北方の天が夜な夜な真っ赤に見えることをいぶかる。すると魯粛(ろしゅく)は、急に曹操が北岸に要塞を築かせたことを伝えた。

これを聞いた周瑜は、自ら要塞の規模を探ってみると言いだす。そして一夜、密かに一船に乗り込み、魯粛や黄蓋(こうがい)ら8人の大将を連れ曹操の本拠を偵察に行く。

船楼には20張(ちょう)の弩弓(どきゅう)を張り、それぞれ弩弓手を配しておき、船体は幔幕(まんまく)を巡らせて覆い隠した。このようにしたうえ、わざと鼓楽を奏して敵の目をくらましながら、徐々に水寨へと近づいていく。

弩弓の数え方については先の第98話(03)を参照。

(03)長江の北岸 曹操の本営

星の暗い夜更け、周瑜は42座の水門や寨柵、大小の船列をくまなく見渡し、その構想と布陣に驚いた。

魯粛が、蔡瑁と張允の知囊(ちのう)は決して見くびったものではないと言うと、周瑜は舌打ちし、ふたりを殺してしまわないうちは、水上の戦いであっても滅多に安心はできないと応ずる。

こう語りながら、なお船楼の幕の内で酒を酌み、碇(いかり)を移してあなたこなた、夜明けまではと探っていた。

魏(ぎ)の監視船がこれを見つけて曹操に急達すると、水寨から一陣の船手が追いかけ始める。しかし、周瑜の船はいち早く逃げ去ってしまう。

翌朝、曹操は取り逃がしたと聞き、ひどく鋭気を削がれていた。そのとき幕賓の蔣幹(しょうかん)が、周瑜を説きお味方に加えてみせると大言を吐く。

彼は九江(きゅうこう)の生まれで周瑜とは郷里も近く、少年時代から学窓の友だった。曹操は一夕、盛大な壮行会を設けて江へ送り出す。

(04)長江の南岸 周瑜の本営

蔣幹の来訪を聞くと周瑜は笑って通すよう言い、諸将に一計をささやく。こうして周瑜は華やかに轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ、門のようにしたもの)で出迎える。

だが、「曹操から頼まれてお越しになったのじゃないかな?」などと言って、蔣幹の顔色が変わったのを見ながら、すぐに冗談だと打ち消した。

蔣幹がわざと面を膨らせてみせると、笑って肩をなでてなだめ、ともに臂(ひじ)を組み酒宴の席へ誘う。

主客が席に着くと徳勝楽(とくしょうがく)という軍楽が奏される。周瑜は立って蔣幹を紹介するが、「決して曹操の説客(ぜいかく)ではないから」と変な言い回しをした。

さらに太史慈(たいしじ)に自分の剣を渡し、「お客が第一の迷惑とされることは、曹操の説客ならずやと白眼視されることである」と言い、「もしこの席上で、曹操とわが国との合戦のことなどかりそめにも口にする者があったら、即座にこの剣をもって斬り捨てよ」と命ずる。

蔣幹は、まるで針の蓆(むしろ)に座っているような心地だった。

満座、酒に沸き、ようやく興もたけなわ。佳肴(かこう)杯盤は巡り、人々はこもごも立って舞い歌い、また囃(はや)した。

「少し外気に酔いを醒(さ)まして、また飲み直そう」と、ここで周瑜は蔣幹と臂を組んで帳外へ連れ出す。

陣中を逍遥(しょうよう。ぶらぶらすること)しながら、武器や兵糧が豊富にあるところを見せたり、営中の士気の盛んなありさまをそれとなく見せて歩いた。

やがて以前の席へ戻ってきたが、その道々にも孫権(そんけん)が自分を重用してくれていることを語り。腐れ儒者に説得されたぐらいでは心変わりしないことを匂わす。蔣幹の体は明らかに震えており、酔いも醒め、顔は土気色になっていた。

周瑜は蔣幹とともに宴席に戻ると、群英の会と称するこの会の吉例として、それがしの舞を一曲ご覧に入れようと、剣を抜いて舞いだす。

その後は「今夜はご辺(きみ)と同じ床に寝て語り明かそう」と言い、蔣幹と寝所へ転(まろ)び込む。周瑜は衣も脱がず帯も解かず、牀(しょう。寝台)をよそに床に倒れて寝てしまう。

四更(しこう。午前2時前後)に近いころ蔣幹が身を起こしてみると、卓上に多くの書類や書簡が取り散らかっていた。こぼれ落ちている5、6通を拾ってそっと見ると、みな陣中往来の機密文書である。

井波『三国志演義(3)』(第45回)では、蔣幹が机の上の文書をこっそり調べたのは「二更(にこう。午後10時前後)すぎ」のこと。

その中に見覚えのあるような手跡があり、これを開いてみたところ、曹操の幕下で日常顔を見ている張允の手簡)。しかも、蔡瑁と張允から呉(ご)への内応を持ちかけるものだった。

不意に周瑜が寝返りを打ったので、あわてて蔣幹は灯火を吹き消す。また周瑜が大鼾(おおいびき)をかいて寝入ったと見ると、蔣幹もそっと衾(ふすま)を打ち担ぎ、牀の上に横たわっていた。

すると、帳外の扉を叩(たた)く者がある。蔣幹が息を殺していると、腹心らしい大将が入ってきて周瑜を揺り起こす。

井波『三国志演義(3)』(第45回)では、誰かが帳の中に入ってきて周瑜に呼びかけたのが四更に近づいたころとある。

周瑜は寝所にいた蔣幹に驚いた様子を見せ、帳外に出て立ち話をする。ときどき会話の中から蔡瑁や張允という名が聞こえてきた。

そのうち別の声が聞こえ、北国訛(なま)りの男がしゃべりだす。呉の陣中に北国の兵がいるのはいぶかしいと、いよいよ蔣幹は聞き耳をそばだてていた。

蔡大人(さいたいじん)とか張都督(ちょうととく)などと、蔡瑁や張允のことを尊称している言葉つきから見ても、彼らの部下か頼まれてきた者だということは想像できる。

密使らしき男と腹心らしき大将が立ち去ると、周瑜も寝室に戻ってきた。そして今度は帳を引き、寝床の中へ深々と潜り込む。

窓の辺りがほのかに明るくなりかけると、蔣幹は周瑜が眠っているのを見て厠(かわや)へ立つふりをし、内房から飛び出す。

陣屋の轅門では番兵の一喝を浴びるも、強いて横柄に構えてやり過ごした。番兵の目から離れると風のごとく駆け出し、江岸の小舟に飛び乗る。

(05)長江の北岸 曹操の本営

立ち帰った蔣幹は、まず周瑜の説得が不調に終わったことを復命。続いて、彼の寝室から奪ってきた書簡のひとつを差し出す。

曹操は激怒して蔡瑁と張允を呼ぶと、ふたりを処刑するよう命ずる。

ふたりは仰天し、張允は書簡を見て「偽書だ!」と跳び上がったが、その叫びも終わらぬうちに大剣が振り下ろされた。逃げようとした蔡瑁の首も、一刀両断の下に転がっていた。

管理人「かぶらがわ」より

蔣幹を逆用し、意外と手強かった蔡瑁と張允を除いてみせる周瑜。ただ、このふたりが周瑜の計によって除かれたというのは正史『三国志』には見えません。

蔣幹が曹操の密命を受けて周瑜のもとを訪ねたことは、『三国志』(呉書〈ごしょ〉・周瑜伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』に見えます。

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吉川『三国志』 (06) 赤壁の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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