吉川『三国志』の考察 第059話「名医(めいい)」

江東(こうとう)諸郡の攻略を進める孫策(そんさく)のもとに、母や弟の孫権(そんけん)らを残してきた宣城(せんじょう)が夜襲を受けたとの知らせが届く。

孫策が急ぎ宣城に戻ると、母たちの身は無事だったものの、孫権を助けようとして重傷を負った周泰(しゅうたい)の容体が想像以上に悪かった。孫策は皆に妙案を求めるが――。

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第059話の展開とポイント

(01)宣城

江東の平定が一段落した孫策は、曲阿(きょくあ)にいる老母と一族を迎えに行かせる。そして弟の孫権に周泰を付けて宣城を守らせ、自分に代わり母に孝養を尽くすよう言い、再び南方の制覇へ赴いた。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)では、孫策は母・叔父・弟たちを迎えて曲阿へ帰らせ、弟の孫権と周泰に宣城を守らせると、自分は軍勢をひきいて南の呉郡(ごぐん)を攻略したとある。

(02)呉郡

そのころ呉郡では、「東呉(とうご)の徳王(とくおう)」を自称した厳白虎(げんぱくこ)が威を振るっていた。孫策の襲来が伝わると厳白虎の弟の厳輿(げんよ)が兵をひきい、楓橋(ふうきょう)まで出て防寨(ぼうさい)に拠った。

孫策は自ら前線に立とうとして張紘(ちょうこう)から諫められ、韓当(かんとう)に先鋒を命ずる。加えて陳武(ちんぶ)と蔣欽(しょうきん)が小舟で楓橋の後ろへ回って挟撃したため、厳輿は支えきれず呉城へ後退。孫策は息もつかせず呉城へ迫った。

厳白虎は一時的な和睦を考え、厳輿を孫策のもとへ遣わす。だが孫策は、和睦の条件が江東の地を平等に分け合うことだと聞くと、一喝して追い返す。さらに帰りかけた厳輿に飛びかかると、一刀に首を刎(は)ね落とし血震いした。

厳白虎は厳輿が首になって帰ったのを見ると、ひとまず会稽(かいけい)へ退いて浙江(せっこう)の諸雄を頼み、策を立て直そうとひどく弱気になる。

厳白虎は烏城(うじょう)を捨て、にわかに夜中に逃げ出す。太史慈(たいしじ)や黄蓋(こうがい)らは追いまくり、存分な勝ちを収めた。

少し前は呉城にいたらしい厳白虎が、ここでは「烏城を捨て……」となっている。呉城はいいとして烏城がよくわからなかった。どうやら烏程城(うていじょう)のことらしいが……。

井波『三国志演義(1)』(第15回)では黄蓋が嘉興(かこう)を攻め取り、太史慈が烏程を攻め取った結果、数州(数県?)すべてが平定されたとあり、厳白虎は余杭(よこう)へ向かう道中で略奪を働いたため、村人をひきいた凌操(りょうそう。淩操)父子に打ち破られ、会稽を目指して逃走したともあった。

ちなみに吉川『三国志』では、ここで凌操父子(子は凌統〈りょうとう。淩統〉)に触れておらず、このふたりの登場はもう少し後(第135話)になる。

(03)会稽(山陰〈さんいん〉?)

会稽太守(かいけいたいしゅ)の王朗(おうろう)は、やってきた厳白虎を助けて大軍を繰り出し、孫策の侵略にあたろうとした。

すると虞翻(ぐほん)が諫め、厳白虎を捕らえて献じ、孫策と誼(よしみ)を結んで国の安全を図るよう勧める。このことで虞翻は王朗の怒りを買い、国外に追放されてしまう。

会稽に攻め寄せた孫策に対し、王朗も自ら戦陣に出て打ってかかる。孫策を制して太史慈が応ずると、王朗の旗下からも周昕(しゅうきん)が飛び出した。

すさまじい混戦の中、周瑜(しゅうゆ)と程普(ていふ)が後ろへ回って退路をふさぐ形を取ると、王朗軍は全軍にわたり乱れだす。

王朗は命からがら城へ引き揚げたが、ここで手痛い損害を受けたため、それからは城門を固く閉じて動かなくなった。

孫策が自軍の兵糧を心配していたところ、叔父の孫静(そんせい)が一策を案ずる。

それは、会稽の金銀兵糧は会稽城にはなく、ここから数十里先の査瀆(さとく)に隠されており、この査瀆を急襲すれば、王朗も黙って見ているわけにはいかないだろうというものだった。

孫策は献策を容れ、その夜は陣の各所に多くの篝火(かがりび)を焚かせ、おびただしい旗を立て連ねる。今にも会稽城に攻めかかりそうな擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)の計を施しておき、疾風のごとく査瀆へ兵を転じた。

孫策軍の盛んな篝火を見て会稽城では眠らずに防備を固めていたが、夜が白み城下の篝火が消えると、そこには敵の一兵もいなかった。

そのうち王朗のもとに査瀆が襲われているとの知らせが届く。仰天して査瀆へ駆けつけようとする途中で伏兵に遭い、ついに王朗軍は完膚なきまでに殲滅(せんめつ)された。

井波『三国志演義(1)』(第15回)では、このときの戦いで周昕が孫策の槍(やり)によって刺し殺されたとある。吉川『三国志』では周昕の死に触れていない。

王朗は死地を逃れ、海隅(かいぐう)へ落ちていった。

井波『三国志演義(1)』(第15回)では、王朗は先発部隊(厳白虎と周昕)の敗北を知ると城内へ戻ろうとせず、部下を引き連れ海岸に向かって逃走したとある。

だが厳白虎は余杭へ奔る途中、元代(げんだい。董襲〈とうしゅう〉のあざな)という男に酒を飲まされ、熟睡したところで首を斬られる。元代は孫策に首を献じて恩賞に与(あず)かった。

こうして会稽城も孫策の手に落ち、南方の地はほとんど統治下になびいたので、孫策は叔父の孫静を会稽の城主(会稽太守?)に、腹心の君理(くんり。朱治〈しゅち〉のあざな)を呉郡太守に、それぞれ任じた。

このころ宣城から早馬が来て、近郷の山賊と諸州の敗残兵から夜襲された際、孫権を助けようとした周泰が全身12か所に傷を負い、瀕死(ひんし)の容体だと伝える。

(04)宣城

孫策が急いで宣城へ帰ると、案じていた母の身はつつがなかったが、周泰は想像以上に重傷で日夜苦しがっていた。

この第59話(01)で触れたように、井波『三国志演義(1)』(第15回)では孫策の母たちは曲阿へ帰されたため宣城にいない。

孫策が皆に名薬を求めると、新たに臣下に加わっていた元代(董襲)が、7年前にひどい矢傷を負ったとき虞翻から友人の名医を紹介してもらい、その手当てを受け10日で全治した話をする。

そこで虞翻を捜すよう命ずると、さっそく彼は親友の医者を伴ってきた。沛国(はいこく)譙郡(しょうぐん)の生まれだという医者の華陀(かだ。華佗)は、すぐに周泰を診て「まずひと月かな……」とつぶやく。

華陀の出身地を沛国譙郡としていたが、沛国譙県としたほうがよかったかも。

果たしてひと月の間に、傷は拭ったように全治した。孫策が褒美の望みを聞くと、華陀は「何もない。仲翔(ちゅうしょう。虞翻のあざな)を用いてくださればありがたい」と答える。

管理人「かぶらがわ」より

呉郡と会稽郡も手中に収め、ほぼ江東の平定を終えた孫策。厳白虎や厳輿といった小物が消える一方で、董襲や虞翻が新加入。それでも華陀だけは留まってくれませんでした。

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