吉川『三国志』の考察 第041話「大権転々(たいけんてんてん)」

王允(おういん)の画策により董卓(とうたく)が誅殺された後、李傕(りかく)・張済(ちょうさい)・郭汜(かくし)・樊稠(はんちゅう)といった董卓の旧臣たちが、大軍をひきいて長安(ちょうあん)へ押し寄せる。

王允は献帝(けんてい)の身を案じ、彼らの要求に従う形で宣平門(せんぺいもん)の門楼から飛び下り、朝廷の実権は李傕らに握られた。

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第041話の展開とポイント

(01)西涼(せいりょう)

郿塢城(びうじょう)から敗走した大軍が西涼地方へ流れ込む。これらをひきいていたのは董卓の旧臣の李傕・張済・郭汜・樊稠だった。

彼らは連名で長安へ使者を遣わし恭順の意を示す。しかし王允は追い返し、即日討伐令を発した。

李傕らは賈詡(かく)の意見に従い、このまま団結を解かず、西涼一帯の地方民も糾合して長安を目指す。集まった雑軍を加え14万の大軍になったが、さらに道中、董卓の女婿で中郎将(ちゅうろうしょう)の牛輔(ぎゅうほ)も残兵5千を連れて合流した。

(02)長安の郊外

だが、李傕らは呂布(りょふ)が迎撃に出てくることがわかると、意気阻喪していったん退く。それでも賈詡に夜襲するよう言われ実行してみると、意外にも敵は脆(もろ)かった。

このとき夜襲を受けた陣の大将は呂布ではなく李粛(りしゅく)で、油断していたため兵の大半を討たれ、30里も敗走するという醜態をさらしてしまう。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第9回)では、いったん李粛に敗れて退却した牛輔が、その夜のうちに李粛の陣を急襲。今度は李粛が30里余りも敗走し軍勢の大半を失ったとある。ここでは賈詡の献策から夜襲をかけたことにはなっていないようだが……。

後陣にいた呂布は激怒して李粛を斬り、その首を軍門に掛けると、瞬く間に牛輔の軍勢を撃破する。

逃げ退いた牛輔は腹心の胡赤児(こせきじ。攴胡赤児〈ほくこのせきじ〉)と相談。金銀をさらって逃亡を図ると、4、5人の従者だけを連れて未明に陣から脱走した。

ところが途中の河べりまで来たとき、河を渡りかけた牛輔を胡赤児が後ろから斬りつけ、首を搔(か)き落とす。胡赤児は呂布の陣に行き、牛輔の首を献じた。

だが仲間のひとりが、胡赤児が牛輔を殺したのは金銀を奪おうと考えたからだと陰で自白したため、呂布は胡赤児も斬って捨てた。

李傕らは決戦の覚悟を固め、呂布が勇のみであることに付け込み、わざと敗れて逃げることで呂布軍を山間へ誘い出し、決戦を長引かせる。その間に張済と樊稠は道を迂回(うかい)して長安まで進んだ。

王允から長安へ引き返すようにとの急使が来ても、呂布は山間で李傕や郭汜の兵と対峙(たいじ)していて身動きが取れなかった。

(03)長安

張済と樊稠の軍勢は鉄壁の外城に食い止められるかに見えたが、長安の市中に潜伏していた董卓派の残党が白日の下に躍り出し、城門を内部からみな開けてしまう。

井波『三国志演義(1)』(第9回)では、城内から賊と内通した董卓の残党として李蒙(りもう)と王方(おうほう)の名を出していた。吉川『三国志』ではこのふたりを使っていない。

変を聞いた呂布は、ようやく山間での小競り合いを捨てて引き返した。だが城外十数里まで駆けつけてみると、すでに長安の夜空は一面真っ赤になっていた。

さすがの呂布も手が出せず、100余騎だけを残して軍勢を解くと、にわかに道を変え袁術(えんじゅつ)のもとへ落ちていった。

(04)長安 宣平門

献帝は侍従の勧めに従い、自ら宣平門の楼台に上がり李傕らを詰問。

『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「(宣平門は)長安の城門の名。城の東側の北寄りの第一門である。東側には3つの門があった」という。

李傕は、ゆえなく王允らの一味に謀殺された董卓の復讐(ふくしゅう)を図っただけで、断じて謀反ではないと答える。また王允の身柄を渡してもらえれば、すぐに禁門(宮門)から撤兵するとも言う。

これを聞くと、献帝のそばにいた王允が門楼から飛び下りる。その体は、たちまち寄りたかった剣と槍(やり)によってズタズタにされた。

なおも兵が退かないので献帝が再び諭すと、李傕らは官職を要求。

やむなく献帝は彼らの要求を認め、李傕を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に、郭汜を後将軍(こうしょうぐん)に、樊稠を右将軍(うしょうぐん)に、張済を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に、それぞれ任じた。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では4人が官爵を要求したとあり、爵位にも言及。李傕が池陽侯(ちようこう)、郭汜が美陽侯(びようこう)、樊稠が万年侯(ばんねんこう)、張済が平陽侯(へいようこう)となっている。

後将軍について、先の第25話(03)ではルビがなかったので「ごしょうぐん」と読んでおいたが、ここでは「こう(しょうぐん)」というルビがあった。ただし、先の第19話(05)で後軍校尉に「こうぐん(こうい)」ではなく「ごぐん(こうい)」というルビがあるなど、数多くの揺れが見られる。

(05)長安

ほどなく西涼太守(せいりょうたいしゅ)の馬騰(ばとう)と幷州刺史(へいしゅうしし)の韓遂(かんすい)が、10余万の大軍をひきいて長安へ押し寄せる。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では馬騰と韓遂が、長安にいた侍中(じちゅう)の馬宇(ばう)、諫議大夫(かんぎたいふ)の种邵(ちゅうしょう)、左中郎将(さちゅうろうしょう)の劉範(りゅうはん)と結託していたことに触れていた。

吉川『三国志』では馬宇ら3人が使われていない。ちなみに劉範は劉焉(りゅうえん)の息子で劉璋(りゅうしょう)の長兄。

李傕らは賈詡に諮り、長安の周囲の外城を固める消極戦術を採った。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では、李傕らの命を受けた李蒙と王方が1万5千の軍勢をひきい、長安から280里のところまで出て布陣している。

また井波『三国志演義(1)』(第10回)では、馬騰の息子で17歳になったばかりという馬超(ばちょう)を登場させていた。馬超が王方を槍でひと突きにし、李蒙を生け捕り(その後に斬首)にしたという流れ。このあたりの筋の違いは、吉川『三国志』が登場人物を絞っているためだと思われる。

なお、熹平(きへい)5(176)年生まれの馬超が(この初平〈しょへい〉3〈192〉年の時点で)17歳だというのは史実とも合っている。ただ吉川『三国志』や『三国志演義』では、史実では190年のことである「初平」への改元が、189年中に行われたことになっている点に注意が必要。

やがて100日も経つと、寄せ手の軍勢はすっかり戦意を失う。糧草の欠乏や長期の滞陣に倦(う)んでいたところに、雨期を越えてからおびただしい病人が出たりしたためだった。

機をうかがっていた長安の兵は一度に四門を開き、寄せ手を蹴散らす。馬騰と韓遂の軍勢は大敗し、散りぢりになって逃げ走った。

この乱軍の中で韓遂が樊稠に追いつかれる。

井波『三国志演義(1)』(第10回)では、樊稠が陳倉(ちんそう)の辺りで韓遂に追いついたとあった。

しかし韓遂が以前の友誼(ゆうぎ)を訴えたところ、樊稠はつい人情に捕らわれ軍勢を返してしまう。

翌日、長安城内で戦勝の大宴が開かれたが、その席上で李傕は樊稠の後ろに回り、いきなり首を刎(は)ねる。驚きのあまり床に座り込む張済。

李傕は張済に、樊稠は昨日の戦場で故意に敵の韓遂を助けたから誅伐したのだと説明。このことを叔父に告げたのは、李傕の甥の李別(りべつ)だった。

さらに李傕は、樊稠配下の軍勢の統率をみな張済に任せた。

李別は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・董卓伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』には李利(りり)とある。

管理人「かぶらがわ」より

ひとりの董卓が死に、4人のミニ董卓が現れました。長安の混乱は続きます。結局、董卓誅殺の功労者である王允や呂布も、ここで主導権を握ることはできなかったのですね。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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