病死した劉表(りゅうひょう)の跡を継いだ劉琮(りゅうそう)は、戦うことなく曹操(そうそう)に降伏してしまった。
関羽(かんう)は配下の部隊からこの話を聞き知ると、降使を務めた宋忠(そうちゅう)を伴い新野(しんや)の劉備(りゅうび)に報告する。劉備は新野を捨て、樊城(はんじょう)へ向かう決断を下すが――。
第140話の展開とポイント
(01)宛城(えんじょう)
曹操の大軍が宛城に到着。近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく再整備をしていた。そこへ荊州(けいしゅう)の劉琮から、降参の使いとして宋忠の一行がやってくる。
曹操は大満足で、劉琮を忠烈侯(ちゅうれつこう)に封じ、長く荊州太守(けいしゅうたいしゅ)たる保証を与えようと言う。宋忠は衣服や鞍馬(あんば)を拝領し、首尾よく荊州へ帰っていった。
★忠烈侯がよくわからず。何だか雑号将軍(ざつごうしょうぐん)みたいな爵位だが、忠烈という地の県侯(けんこう)でもなさそう。
なお『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第40回)では曹操が宋忠に、劉琮に襄陽(じょうよう)の城外まで出迎えるよう言いつけ、そうすれば彼を長く荊州の主とすると話していた。ここでは忠烈侯への言及がない。
(02)新野
宋忠が江を渡り渡船場から上がってくると、このあたりを守っていた関羽の一隊に出くわす。話を聞いた関羽は宋忠を引っ提げ新野へ向かう。
初めて事情を知った劉備は悲涙にむせび、昏絶(こんぜつ)せんばかりだったが、いまさら首を刎(は)ねても仕方ないと、宋忠は城外へ放した。
そうしていたところへ、荊州の幕賓である伊籍(いせき)が訪ねてくる。
彼は、蔡夫人(さいふじん)や蔡瑁(さいぼう)が劉琦を差し置き劉琮を国主に立てたことを痛憤し、その鬱懐(うっかい)を訴えに来たのだった。
★井波『三国志演義(3)』(第40回)では、伊籍は劉琦(りゅうき)の使者としてやってきたとあった。
伊籍は荊州降伏の話を聞くと、ただちに喪を弔うと称して襄陽へ行き、欺いて劉琮を奪い取り、蔡瑁や蔡夫人らの奸党(かんとう)閥族を一掃するよう勧める。
諸葛亮(しょかつりょう)も同意するが、劉備はただ涙を垂れるのみで、亡き劉表の信頼に背くことはできないと拒む。
劉備は新野を捨てて樊城に避けると言うが、そこへ早馬が着き、すでに曹操軍の先鋒が博望坡(はくぼうは)まで迫ってきたと伝える。
伊籍が帰ると諸葛亮は劉備を慰め、さっそく諸将に命を下す。
★井波『三国志演義(3)』(第40回)では、曹操軍の接近を聞いた劉備が伊籍に、江夏(こうか)へ戻って軍馬を整備するよう命じている。
まずは城下の四門に高札を掲げ、領下の者に避難を促した。遅れる者は曹操のため必ず皆殺しにならんと。
孫乾(そんけん)には、西河(さいか)の岸に舟をそろえて避難民を渡すよう命ずる。糜竺(びじく。麋竺)には、渡ってきた百姓たちを導き樊城へ入れるよう命ずる。
関羽には、1千余騎をひきいて白河(はくが)上流に埋伏し、土囊(どのう)を築いて流れをせき止めるよう命ずる。
明晩の三更(午前0時前後)のころ、白河の下流で馬のいななきや兵の叫び声が聞こえたら、土囊の堰(せき)を切って落とし、激水とともに一斉に攻めかかれと。
さらに張飛(ちょうひ)も、1千余騎をひきいて白河の渡口(わたし)に兵を伏せ、関羽と一手になり、曹操の中軍を完膚なきまで打ちのめすようにとも。
そして趙雲(ちょううん)に3千の兵を授け、乾燥した柴(シバ)・蘆(ヨシ)・茅(カヤ)などを十分に用意し、硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を包んで楼上へ積み置くよう命ずる。
明日の暮れ方から大風が吹くと言い、そのとき兵を三方に分け、西門・北門・南門の三手から火矢・鉄砲・油礫(あぶらつぶて)などを投げかけて、一斉に兵なき東門へ駆け迫れと。
★油礫はいいとしても、ここで鉄砲が出てくるのはどうなのだろうか?
城内の敵兵はことごとく東門から逃げあふれてくるので、その混乱を存分に討ち、頃合いを見て引き返せ。白河の渡口で関羽や張飛の手勢と合流したら、樊城を指して急ぎに急げとも。
命を受けた諸将が勇躍して立ち去ると、諸葛亮は糜芳(びほう。麋芳)と劉封(りゅうほう)を呼ぶ。糜芳には紅の旗を、劉封には青の旗を、それぞれ手渡し、何か計を授ける。
やがてふたりは1千余騎ずつを従え、新野から約30里にある鵲尾坡(じゃくびは)へ急いでいった。
(03)新野の郊外
曹操は総軍の司令部を宛城に置き、情勢を大観。曹仁(そうじん)と曹洪(そうこう)を大将とする先鋒の第1軍10万は、許褚(きょちょ)の精兵3千を加え、その日すでに新野の郊外まで殺到していた。
昼ごろ曹仁らは兵馬を休ませる。案内の者に聞くと、ここは新野まで30余里の鵲尾坡だという。
そのうち偵察に出た数十騎が引き返してきて、少し先には山に拠り、峰に沿い、陣取っている敵がいると報告。一方の山では青の旗を打ち振り、もう一方の峰では紅の旗を打ち振って、何やら呼応の形を示しているようだとも。
これを聞くと許褚が当たってみると言い、手勢3千をひきいて深々と前進。報告通りふた色の旗が打ち振られているのを見るが、味方の手出しを戒め、ひとりで引き返して曹仁の指示を仰いだ。
曹仁は一笑に付し、ふた色の旗などは敵の虚勢だと判断。許褚は再び鵲尾坡から取って返すと、兵に下知して進軍を続けたものの、ひとりの敵も出てこない。
日が沈むと山懐は暗く、東の峰の一方が夕月にほの明るかった。そのとき山の絶頂から大擂(だいらい)を吹く音が聞こえ、許褚の手勢はみな足を止める。
よく見ると峰の頂上にやや平らなところがあり、そこに一群の旌旗(せいき)を立て、傘蓋を開き、対座している人影がある。月の昇るに従い、それが劉備と諸葛亮であることがわかった。
許褚は愚弄されたと感じてひどく怒り、手勢を励まし山の絶壁に取りすがる。ところが、たちまち巨岩や大木の雨が幕を切って落とすようになだれてきた。幾十か知れない人馬が傷つき、あわてて兵を退く。
許褚が考え迷っているところへ曹仁や曹洪らの本軍が合流。曹仁は皆を叱咤(しった)してしゃにむに猛進を続け、ついに新野の街まで押し入った。
(04)新野
曹仁らは劉備と諸葛亮の逃げ足のきれいさを笑い、ここで全軍を休ませ一泊することを決める。この後、曹仁や曹洪らが城に入り酒を酌み交わしていると、外の番卒が火事だと騒ぎ立てた。
曹仁は、兵卒が飯を炊く間に誤って火を出したのだろうと余裕を示すが、外の騒ぎはいつまでもやまない。西門・北門・南門の三門が火の海となり、曹仁と曹洪が敵の火攻めに気づいたときにはもう遅かった。
東門には火がないと、誰言うとなくわめき合い、幾万という人馬が我がちに一方へ押し流れる。
(05)新野の郊外
曹仁や曹洪らは辛くも火中を脱したが、道に待っていた趙雲に阻まれ、散々に打ちのめされる。あわてて後ろへ戻ると、今度は劉封と糜芳が一軍をひきいて前を立ちふさいだ。
仰天した曹操軍は白河の辺りまで逃げ去り、ホッとひと息ついていたが、かねて上流に埋伏していた関羽の一隊は、遠く兵馬の声を耳にし一斉に土囊の堰を切る。さながら洪水のような濁流は暗夜の底を吠え、曹操軍数万を雑魚のように吞み消した。
管理人「かぶらがわ」より
あくまで荊州を奪おうとしない劉備。そして、この第140話は諸葛亮劇場でした。
曹仁も数多くの物見を使っているはずですけど、ここまで計略に引っかかると逆に噓くさい感じが、と思っていたら、やはりこのあたりのことは史実に見えないもの。
そもそも劉備が荊州の降伏を知ったのは、新野にいたときではなく、樊城にいたときですからね……。
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