吉川『三国志』の考察 第141話「亡流(ぼうりゅう)」

曹仁(そうじん)と曹洪(そうこう)ひきいる第1軍の10万と、許褚(きょちょ)ひきいる精兵3千は、諸葛亮(しょかつりょう)の計略にことごとくはまり、新野(しんや)に続いて白河(はくが)でも多くの味方を失う。

敗報を聞いた曹操(そうそう)は大いに立腹し、一気に劉備(りゅうび)の拠点を屠(ほふ)ろうと考えた。だが劉曄(りゅうよう)に諫められると、あえて徐庶(じょしょ)を樊城(はんじょう)へ遣わし、劉備に降伏を促してみる。

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第141話の展開とポイント

(01)新野の郊外

この夜、白河の底に溺れ死んだ人馬の数はどれほどか、その大量なこと計り知るべくもない。曹仁と曹洪はこの大難から辛くも免れ、博陵(はくりょう)の渡口(わたし)まで逃げてきた。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「博陵は渡し場の名。荊州(けいしゅう)南陽郡(なんようぐん)の新野県に属する。なお、この地名は後漢(ごかん)・三国時代にはなかった」という。

ところが張飛(ちょうひ)が待ち受けており、ここでもまた屍山(しざん)血河を作る。すでに曹仁の身も危うかったが、許褚が取って返して張飛と槍(やり)を合わせ、万死のうちから救った。

張飛は大魚を逸したものの、久しぶりに胸がすいたと言う。兵を収めて江岸を上ると、かねて示し合わせてある劉備や諸葛亮と合流。そこには劉封(りゅうほう)や糜芳(びほう。麋芳)らが船をそろえて待っていた。

劉備以下の全軍が対岸へ渡り終えたころ、夜は白みかけていた。諸葛亮は船をみな焼き捨てるよう命じ、樊城へ入る。

(02)宛城(えんじょう)

曹操は味方の第1軍の大敗を聞くと、新野・白河・樊城などを一挙に屠るべく大行動に移ろうとした。

これを劉曄が諫め、この地方には丞相(じょうしょう。曹操)の威名や仁慈が知られていないと言い、武威を示すよりも降伏を促すべきだと述べる。

一時いきり立った曹操も大いにうなずく。それでも、誰を使いに遣るかということに考えを残している様子だった。

すると劉曄は徐庶が適任だと言う。曹操は、徐庶を遣ったら再び帰ってくるはずがないと応ずる。

しかし劉曄は、劉備との交情が天下周知のことだからこそ、この使いから彼が帰らなければ天下の物笑いになると言う。曹操は徐庶に大命を授けると、劉備のいる樊城へ遣わす。

劉曄の発想が理解できず。先の第130話(03)にあるような形で徐庶の母が自害したとするなら、徐庶が劉備のもとへ戻っても天下の物笑いにならないと思うが……。

(03)樊城

こうして徐庶が樊城に着くと、劉備は諸葛亮とともに堂へ迎える。徐庶は、曹操の本志が和議にはなく、民心の怨嗟(えんさ)を転嫁せんための奸計(かんけい)だと告げた。

すぐに徐庶は帰っていったが、この返事が届くまでの間に劉備は再び城を捨て、ほかに安らかな地を求めなくてはならない。

誘降を拒絶したと聞けば、曹操は「民を戦禍に投じた者は玄徳(げんとく。劉備のあざな)である」と罪をなすり、台風のごとく攻めてくることが決定的とみられたからである。

劉備は諸葛亮の勧めに従い(対岸の)襄陽(じょうよう)へ避けることにし、関羽(かんう)に渡江の準備を命じた。

(04)樊城の城外

関羽は江頭に舟をそろえ、数万の百姓を集めて言い渡す。

「我らとともに行かんとする者は江を渡れ。後に残ろうと思う者は、去って旧地の田を耕すがいい」

百姓老幼みな声をそろえて泣き、ずっと付き従っていく意思を示した。そこで関羽は糜竺(びじく。麋竺)や簡雍(かんよう)らと協力し、この膨大なる大家族を次々に舟に盛り上げては対岸へ渡していく。

劉備も舟に移り渡江にかかったが、折もあれ約5万の曹操軍が馬煙を上げ、樊城の城外から追いかけてきた。岸に群れ惑う者、舟の中に泣き叫ぶ者、誤って河中に落ちる者など、男女老幼の悲鳴は水にこだまし、思わず耳を覆うばかり。

劉備は様子を眺め身悶(もだ)えしていたが、突然、船べりに立ち、河中に身を投げようとする。左右の人々が驚いて抱き止め嘆き諫めたので、ようやく死を思いとどまった。

関羽は逃げ遅れた百姓の群れを助け、老幼を守り、後から渡ってくる。こうして対岸に渡り着くや、劉備は休む間もなく襄陽へ急いだ。

(05)襄陽

襄陽城には、先ごろから幼国主の劉琮(りゅうそう)やその母たる蔡夫人(さいふじん)以下が荊州から移住している。

ここでは明らかに(劉琮たちが)荊州から襄陽へ移住したとあった。先の第139話(04)と同様、よくわからない記述になっている。荊州城と襄陽城との扱いに混乱が見られることについては、先の第122話(03)を参照。

劉備は城門の下に馬を立て、劉琮に開門を呼びかけた。だが答えはなく、それに代わり多くの射手が櫓(やぐら)の上に現れると矢の雨を降らせてくる。

この様子を城中で見ていた魏延(ぎえん)は、義憤を発して城門を開けようとした。仰天した蔡瑁(さいぼう)は、張允(ちょういん)に命じて討たせようとする。

魏延は、吊り橋を下ろして劉備を迎え入れようと叫ぶが、張允や文聘(ぶんぺい)などが争って妨げた。

城外にいた関羽や張飛らは進退に迷い、諸葛亮に尋ねる。諸葛亮は同士討ちを起こしているようだと言い、道を変え、江陵(こうりょう)へ行くことを提案した。

劉備らが引き返していくのを見ると、日ごろ彼を慕う城中の将士は争って蔡瑁の麾下(きか)から脱走。城門の混乱に乗じ、後を追っていく者は引きも切らないほどだった。

魏延はただ一騎となっても戦い続けていたが、ついに一方の血路を切り開き城外へ出る。すでに劉備は遠く去ってしまっていたのでやむなく長沙(ちょうさ)へ落ち、後に長沙太守(ちょうさたいしゅ)の韓玄(かんげん)のもとに身を寄せた。

(06)江陵へ向かう劉備

劉備は数万の百姓を連れて江陵へ向かったが、なにぶん病人はいるし、足弱な女も多い。

幼を負い、老を助け、家財を携え、車駕(しゃが。本来は天子〈てんし〉の乗る車の意)や担輿(たんよ)なども雑然と続いていく始末。道は1日に10里も進めば関の山という状態だった。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第41回)では、劉備に同行した兵士と住民は10万人以上だったとある。

これには諸葛亮も困り果て、劉備に決断を迫る。ここは一時、涙を吞んでも、百姓や老幼の足手まといを振り捨てて一刻も早く江陵へ行き着き、処置を急がれるようにというのだった。

それでも劉備は依然として、「民とともに死ぬなら死ぬばかりである」と、ついてくる領民を捨てていくことを認めない。

諸葛亮も心を決め、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させる。そして、関羽と孫乾(そんけん)に兵500を分けて江夏(こうか)の劉琦(りゅうき)のもとへ急がせ、江陵への援軍の急派を促す。

(07)樊城

曹操は中軍を宛城から樊城へ進めると、襄陽の劉琮に対面する旨を申し送った。

(08)襄陽

この旨が伝わったものの幼年の劉琮は怖がり、「行くのは嫌だ」と言って聞かない。そこで蔡瑁・張允・文聘の3人が名代として赴くことになったが、その際、劉琮に王威(おうい)がそっと勧める。

「いま不意を突けば、きっと曹操の首を挙げることができます。こんな絶好の機会は二度とあるものではありません」

蔡瑁は怒って王威を斬罪にしようとしたが、蒯越(かいえつ)の諫めによりようやく事なきを得た。

(09)樊城

曹操は荊州の軍馬や銭糧、兵船の数について尋ねる。

蔡瑁は包まずに答え、騎兵8万、歩卒20万、水軍10万。兵船は7千余艘(そう)もあり、金銀兵糧の大半は江陵城に蓄え、そのほかの各地の城にも1年余の軍需が常備してあると述べた。

井波『三国志演義(3)』(第41回)では、騎兵が5万、歩兵が15万、水軍が8万、合わせて28万だとあった。戦船の数は7千余隻で同じ。吉川『三国志』の兵数と食い違っている理由はわからなかった。

これを聞いた曹操は満足し、いつか必ず劉琮を荊州王(けいしゅうおう)に封じてやると約束する。

ここで出てきた荊州王は妙な感じ。当時は皇子でも陳留王(ちんりゅうおう)や弘農王(こうのうおう)など、せいぜい郡王(ぐんおう)までなのに、なぜ劉琮が荊州王になれるのだろうか? 曹操が出任せを言ったということなのだろうが、州王だといかにも噓くさい。

さらに、蔡瑁を水軍大都督(すいぐんだいととく)に任じて平南侯(へいなんこう)に封じ、張允を水軍副都督(すいぐんふくととく)に任じて助順侯(じょじゅんこう)に封じた。

井波『三国志演義(3)』(第41回)では、蔡瑁は水軍大都督に任ぜられ、鎮南侯(ちんなんこう)に封ぜられたとあった。張允の官爵は吉川『三国志』と同じ。

蔡瑁らが帰った後、荀攸(じゅんゆう)が憚(はばか)ることなく放言。あのようなふたりに水軍を任せるとは、丞相(曹操)はあまりに人を知らなすぎると。

これを遠くで聞いていた曹操が、ふたりを水軍の大都督と副都督に起用した意図を話すと、荀攸は閉口し、顔を赤らめながら姿を隠した。

(10)襄陽

蔡瑁と張允は劉琮と蔡夫人の前に出て、上々の首尾だったと詳しく報告。

翌日、曹操が襄陽への入城を伝えると、蔡夫人は劉琮を連れて江の渡口まで出迎え、拝礼して城内へ導いた。

曹操は、蔡夫人の手から亡き劉表(りゅうひょう)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)と兵符を受け取る。諸員が万歳を唱え、入城の儀式はまず終わった。

これが済むと、曹操は荊州の旧臣中から蒯越を呼び出し、江陵太守(こうりょうたいしゅ)に任じて樊城侯(はんじょうこう)に封ずる。

以下、旧重臣の5人を列侯(れっこう)に封じ、王粲(おうさん)や傅巽(ふそん)を関内侯(かんだいこう)に封じた。

傅巽は、先の第139話(04)であざなの公悌(こうてい)として既出。

それからようやく劉琮に向かって青州刺史(せいしゅうしし)にすると言い、青州へ行くよう簡単に命ずる。

劉琮は亡父の墳墓のあるこの地に留まりたいと哀訴するも、曹操に突っ放され、母の蔡夫人ともども数日後に発つ。付き従う者は幾人もなく、王威が少しばかりの郎党を連れ、車馬を守っていったきりだった。

このあと曹操は密かに于禁(うきん)を呼び、何か命を授ける。于禁は屈強な者ばかり500余騎を引っ提げ、すぐに劉琮の後を追いかけた。

凄愴(せいそう)な殺戮(さつりく)は白昼に決行され、王威はあえなく討ち死に。そのほか随身していた者に至るまで、ひとりとして生き残った者はいなかった。

管理人「かぶらがわ」より

新野に続き、樊城も捨てた劉備。襄陽へは入らず江陵を目指すことにしましたが、まったく行程がはかどりません。

そして、降伏後にバッサリやられてしまった劉琮。ですが、これは吉川『三国志』や『三国志演義』における創作です。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・劉表伝)およびその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏武故事(ぎぶこじ)』によると、劉琮は列侯に封ぜられたうえ青州刺史として(殺されずに)着任しており、さらに諫議大夫(かんぎたいふ)・参同軍事(さんどうぐんじ)にも任ぜられていました。

基本的に『三国志演義』での曹操は貶(おと)されることが多いですが、こういう貶し方は安っぽいなと思います。

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