吉川『三国志』の考察 第196話「魏延と黄忠(ぎえんとこうちゅう)」

涪城(ふじょう)に入った劉備(りゅうび)は続いて雒城(らくじょう)を狙う。雒城は涪城と成都(せいと)の間に位置する要害だった。

雒城から出撃した劉璋(りゅうしょう)配下の冷苞(れいほう)と鄧賢(とうけん)に対し、劉備側では魏延(ぎえん)と黄忠(こうちゅう)が先鋒の座を巡って言い争う。結局ふたりもふた手に分かれ、それぞれ敵陣を攻めることになるが――。

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第196話の展開とポイント

(01)成都

玄徳(げんとく。劉備のあざな)、涪城を取ってこれに拠る、と聞こえ渡るや蜀中(しょくちゅう)は鳴動した。とりわけ成都の混乱と、太守(たいしゅ)の劉璋の驚き方といったらない。

痛嘆する一部の側臣を尻目にかけ、劉璝(りゅうかい)・冷苞・張任(ちょうじん)・鄧賢などは、「それ見たことか」と自分たちの先見を誇ってみたものの、今は内輪もめしていられる場合でもなかった。

彼ら4人は劉璋の一任を取り付け、成都の精鋭5万をひきいて雒城へ向かうことになった。

この大軍が発つ日、劉璝が3人に諮る。錦屛山(きんびょうざん)の岩窟(いわあな)に住むという紫虚上人(しきょしょうにん)に、今回の勝敗を占ってもらおうというのだ。

張任は笑ったが、なお劉璝が万全を期すためだと言うと、強いて止めることはなかった。劉璝は数十騎の部下を連れ、すぐに錦屛山へ登っていく。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第62回)では、劉璝だけでなく、冷苞・張任・鄧賢も一緒に紫虚上人を訪ねていた。

(02)錦屛山

一窟の前に、紫虚上人は霧を吸って、瞑想(めいそう)していた。劉璝はひざまずき、何が見えますかと尋ねた。

紫虚上人は無愛想に、「蜀中が見えるよ」と答えるのみ。重ねて劉璝が、「西蜀四十一州だけですか。天下は見えませんか?」と尋ねる。

すると紫虚上人は童子を呼び、紙と筆を取り寄せ、一文を書いて授けた。

左龍右鳳(さりゅううほう)
飛入西川(とんでせいせん〈蜀〉にいる)
鳳雛墜地(ほうすうちにおちて)
臥龍昇天(がりょうてんにのぼる)
一得一失(いっとくいっしつ)
天数如然(てんすうかくのごとくしかり)
宜帰正道(よろしくせいどうにきすべし)
勿喪九泉(きゅうせん〈あの世〉にほろぶるなかれ)

これを読んだ劉璝は、蜀は勝つでしょうかと尋ねるが、紫虚上人は、定業(じょうごう)逃れがたしだとしか答えない。

さらに劉璝は、劉備軍が蜀で成功するか失敗するか尋ねるが、これにも紫虚上人は、一得一失だとしか答えない。そして目をふさぐと、もう何を聞いても返事をしなかった。

劉璝は山を下り、「慎まねばいかん。どうも蜀にとって良い予言ではないようだ」と3人に伝える。張任はひどくおかしがり、即日軍勢を進めた。

(03)涪城

雒県の山脈と往来の喉を扼(やく)している雒城の要害とは、ちょうど成都と涪城の間にある。劉備軍の斥候の一隊が立ち帰って知らせた。

「蜀の四将が全軍5万をふた手に分け、一は雒城を固め、一は雒山の連峰を後ろにして、強固な陣地を構築しております」

劉備は、敵の先陣が冷苞と鄧賢であることを告げ、これを撃破する将を募る。

すると、幕将のうちで最も老いぼれて見える黄忠が名乗りを上げた。また、彼が言い終わるか終わらぬうちに、まるで声からして違う若い魏延が、横からその役を買って出た。

ふたりは互いに譲らず、いずれの志力や腕力が秀でているか勝負に及ばんと、堂を下りて闘おうとする。驚いた劉備は堂上から一喝し、ふたりには先鋒の大役は命ぜられないと言う。

しかし龐統(ほうとう)は執り成したうえ、一策を出して許しを求めた。

龐統はふたりに、冷苞と鄧賢が雒山の山脈を負い、左右二翼に分かれて陣取っていることを伝える。御身(あなた)らもふた手に分かれ、おのおの一方に当たれと。いずれでも早く敵陣を粉砕し味方の旗を掲げた者を、第一の功名とするであろうとも。

ふたりは勇躍して進軍したが、また龐統は劉備に言った。

「あのふたりは、必ず途中で味方喧嘩(げんか)をしますよ。君にも即刻兵を連れ、彼らの後陣にお続きください」

劉備が聞くと、涪城の守りには龐統が残るという。そこで支度を整えると関平(かんぺい)と劉封(りゅうほう)を連れ、その日のうちに雒県へ急いだ。

(04)雒城の郊外

黄忠と魏延の軍勢はほとんど一軍のように、やがて敵前に先鋒の備えを立てる。

魏延は、物見の兵に黄忠軍の様子を聞く。夕刻を過ぎてから再び兵糧を炊(かし)ぐ煙が上がっていたということで、深更(深夜)に陣を払って左の山路を取り、夜明けに敵へ攻めかかろうとしているのではないかとのこと。

そこで魏延は二更(午後10時前後)に兵糧を使い、三更(午前0時前後)に発つとの命を下す。この命令はひどく急だったので、一同は大いにあわてた。

涪城を発するとき、黄忠は冷苞に当たり、魏延は鄧賢の陣を突破するとの方針になっていた。ところが魏延は陣払いの時刻を早め、道も変え、黄忠の進むべき左の山へと進路を取った。

魏延は夜通し山を踏み越え、未明に冷苞の軍営へ迫る。だが思いがけず、敵は八文字に営門を開き、堂々と迎え撃ってきた。

冷苞が決戦を挑むと魏延も大いに戦ったが、そのうち後方から崩れだす。山路で敵の伏兵が現れたらしく、いつの間にか腹背とも攻め鼓に包まれていた。

魏延は冷苞を捨て、野のほうへ5、6里も逃げ退く。しかし、野末の森や山際から起こった一軍が覆い包んできた。

魏延は逃げ道を変えたが、振り向くと鄧賢が追ってくる。鄧賢の大槍(おおやり)が魏延の背を串(くし)刺しにするかと思われたそのとき、一本の白羽箭(びゃくうせん。真っ白な羽を付けた矢)が飛んできた。

白い矢は喉笛深く食いつき、鄧賢は長槍(ちょうそう)を持ったまま勢いよく地上へ転げる。冷苞は代わって追い回すが、魏延の周囲には味方の一兵も見えない。

すると一彪(いっぴょう)の軍馬が野を横切り、冷苞勢の横を打つ。真っ先にあるのは黄忠で、先に矢を放って危急を救ったのも彼だった。この奇襲に冷苞の勝色はたちまち変じ、敗色を呈する。

冷苞は算を乱して劉璝の陣地へ退却したが、営内には劉備配下の関平の旗がたなびいていた。狼狽(ろうばい)を極めた冷苞は、山あいに逃げ込んだところを魏延に生け捕られる。

おびただしい捕虜が劉備の後陣へ送られてきた。まず第一戦は味方の大勝に帰したので、劉備は将士に恩賞を分かち、降兵はことごとく許してそれぞれの部隊に配属させた。

黄忠が抜け駆けした魏延の処分を求めると、劉備は魏延を呼ぶ。魏延は捕らえた冷苞を自ら引いてくる。

劉備は若い魏延を軍法に処す気になれなかったが、気持ちを内に秘めて叱った。

「聞けばそちは、すでに危ういところを黄忠の矢に救われたというではないか。予の前で恩を謝せ」

魏延は黄忠に向かい、こう言うとひざまずきいて頓首(とんしゅ。頭を地面に打ちつけて礼をすること)した。

「貴公の一矢がなければ、鄧賢のために討たれていたかもしれない。謹んで高恩を謝します」

劉備はそれを見ながら、もうひとこと詫びよと言う。魏延は抜け駆けのことだと察したので、さらにこう言った。

「それがし若輩のため、気のみ逸(はや)って時刻や進路を誤り、自ら危地へ陥ったこと面目もありません。しかし、これもみな一途君恩に応えんためのみ。どうかご寛容願いたい」

黄忠は、もう何も言えなくなった。劉備は黄忠の働きを賞し、「目指す成都に入城した暁には必ず重く賞すであろう」と約した。

そして冷苞に鞍馬(あんば)を与え、雒城へ帰って友を説き、城を開いて無血で引き渡すよう諭す。縄を解かれた冷苞は大喜びで飛んでいった。

(05)雒城

雒城へ帰ると、冷苞は味方の劉璝や張任に会い、「一度は敵に生け捕られたが、番兵を斬り殺して逃げてきた」と偽り、かえって盛んな気炎を上げる。

雒城の3人から成都へ援軍要請が届くと、ほどなく劉璋の嫡子の劉循(りゅうじゅん)とその祖父の呉懿(ごい)が、2万余騎をひきいて助けに来た。

この援軍には、蜀軍の常勝王と言われた呉蘭(ごらん)や雷同(らいどう。雷銅)なども加わっていた。だが総帥は、年齢や劉璋の舅(しゅうと)たる格から言っても呉懿だった。

呉懿は正史『三国志』では呉壱(ごいつ)とある。これは(西晋〈せいしん〉の宣帝〈せんてい〉である)司馬懿(しばい)の諱(いみな)を避けているため。なお、呉懿(呉壱)は劉璋の兄である劉瑁(りゅうぼう)の妻の兄。なので劉璋の舅というより義兄にあたる。

呉懿は雒城に着くと、「いま涪江(ふこう)の水かさは高い。敵の陣地を一水に洗い流してしまえ」と命ずる。5千の鋤鍬(すきくわ)部隊は夜陰を待ち、涪江の堤防を決壊すべく待機を命ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

涪城を押さえた劉備はさらに雒城へ。魏延と黄忠のやり取りは創作なのでしょうが、『三国志演義』におけるふたりの人物像に沿ったものだと思います。

ふたりとも正史『三国志』に伝があるものの、かなりあっさりとした内容。こうした魏延の描かれ方については、賛否が分かれるところでしょうね。

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