吉川『三国志』の考察 第237話「蜀山遠し(しょくざんとおし)」

麦城(ばくじょう)に立て籠もり、上庸(じょうよう)からの援軍を待つ関羽(かんう)。しかし、この間にも傷病者や脱走者が増え続け、もはや手勢は300人ほどになった。

関羽は王甫(おうほ)と100余人の兵士を麦城に留め、自身は関平(かんぺい)らと200人たらずの兵士をひきいて城外へ打って出ると、孫権軍(そんけんぐん)の包囲を突破して蜀(しょく)を目指す。ところが行く手を遮るように、次々と孫権配下の部将が現れる。

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第237話の展開とポイント

(01)麦城の城外 孫権の本営

麦城への使いから戻った諸葛瑾(しょかつきん)は、ありのまま孫権に復命する。関羽に降伏を勧めたが、耳も貸さなかったと。

この第237話の冒頭で「閑話休題(それはさておきの意。ただし余談の始めに使うのは誤用)――」として、著者の吉川先生の中国観や三国志観が語られていた。

すると、そばにいた呂範(りょはん)が言った。

「私が占ってみましょう」

呂範は君前を退がると浄衣(白い色の衣服)に着替え、祭壇のある一房に籠もる。伏犠(ふっき)や神農(しんのう)の霊に禱(いの)り、ひれ伏すこと一刻、占うことみたび。こうして地水師の卦(ちすいしのけ)を得た。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「伏犠と神農はともに上古の聖王。三皇に数えられることが多い」という。

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「(地水師の卦の)師は『易経(えききょう)』に見える卦の名称。師の卦は坤(こん。地を指す)の卦と坎(かん。水を指す)の卦を組み合わせたものであるため、地水師の卦という」とある。

もう夜に入っていたが、呂範は再び君前に戻って卦を披露する。このとき孫権と碁を囲んでいた呂蒙(りょもう)が、掌(たなごころ)を指すように言った。

「まさにその易は当たっている。『敵人遠くへ奔る』という卦の象(かたち)だ。それがしが思うところとよく一致する」

「おそらく関羽は麦城から逃れ出んものと、今や必死に腐心しておる。それも大路は選ばず、城北へ細く険しい山道を目がけ、夜陰に乗じて突破を試みるに違いない」

孫権は手を打ち、あわてて軍令に立ちかけたが、まだ呂蒙は碁盤に向かったまま、ひとりニヤニヤしていた。もう各所への伏兵の手配が行き届いているのだという。

ここで呂蒙が孫権に、「さあ、さしかけの局を片づけてしまいましょう……」と言っていた。「さしかけ(指しかけ)の局」という表現は将棋のものだろうから、囲碁に使うと具合が悪いのでは?

そう聞いて孫権も落ち着きを得、碁に戻る。だが今度は急に呂蒙が、「そうだ。北門の寄せ手が少し手強すぎる。誰か、潘璋(はんしょう)を呼んでくれぬか?」と独り言をつぶやき、後ろにいる武士に言いつけた。

潘璋が呼ばれてくると、呂蒙は碁を打ちながら振り向いて指示する。

「麦城の北門には3千の寄せ手を向けてあるが、それを弱兵ばかり7、800に減らし、ほかはすべて西北(いぬい)にあたる山中に埋伏するように。至急、きみが行って指図してくれ」

潘璋が去ると、続いて朱然(しゅぜん)を呼ぶよう近侍に頼む。その朱然が見えると、呂蒙は言った。

「新手4千騎をもって、麦城の南、東、西の三方へいよいよ圧力を加えたまえ。そして足下(きみ)は別に1千騎をひきい、北方の小道や山野などをくまなく遊軍として見回っているように」

碁のほうは孫権の負けになったが、呂蒙とともに哄笑(こうしょう)した。

囲碁には敗れても、今や敵城は余命旦夕、関羽を生け捕ることも神算歴々と、心には別の大きな満足があったからである。

(02)麦城

それに引き換え、昨日今日の麦城の内こそ、実に惨たるもの。500の兵は300に減っていた。傷病者は増え、脱走者は絶えない。夜になると、城外の呉陣(ごじん)にいる荊州兵(けいしゅうへい)が、声を潜めて呼び出しに来る。その誘惑には力があった。

さすがの関羽も今は百計尽きたかのごとくである。王甫や趙累(ちょうるい)に向かっても絶望を漏らした。

王甫は思わず涙を流し、まだ活路があると言う。北門の搦(から)め手(城の裏門)は敵が手薄。そこを破って北方の山中へ駆け入り、蜀を指してお落ちになるようにと。後は自分が命がけで固めているとも。

すでに糧もなく矢弾もない。ついに関羽は涙を吞んで王甫と別れる。わずか100余人を城中に残し、あと200人足らずの兵をひきい、一夜、無月の闇を見定め、麦城の北から不意に打って出たのだった。

(03)麦城の郊外

関平と趙累が先に立ち、北門付近の呉兵を蹴散らす。主従200騎、ひたすら山へ向かって走った。

やがて初更(午後8時前後)のころ、真っ暗な山の細道へ登りかける。しばらくは出で合う敵もなく、草木を揺るがす伏兵の気配もなかった。

一山を越え、また次の一山を迎える。すると突然、前面の沢から無数の火が見えた。左の山からも一団の炬火(たいまつ)が駆け下ってくる。右の峰からも後ろのほうからも、火光はここに集まり、やがて天を焦がすばかりの火となった。

関羽が関平の開いた後から駒を進めかけると、呉の朱然が横合いから呼びかけ、執拗(しつよう)に槍(やり)をつけた。関羽は馬を巡らせて一颯(いっさつ)、大青龍刀を後ろへ送る。

朱然は面を伏せ、念力を凝らして猛然と突いてかかったが、もとより関羽の敵ではない。ほどなく恐れ震えて逃げ出した。

(04)臨沮(りんしょ)

追うまじと戒めていたが、関羽はつい朱然を追い、いよいよ山の隘路(あいろ)まで行ってしまう。関平の姿もいつか見失い、味方の小勢も散りぢりになっていた。そこは臨沮の小道と言って、樵夫(きこり)さえよくまごつく迷路だった。

すると突然、四山の岩がなだれて、駒の脚も埋まるかと思われた。関羽の周りを離れずにいた7、8人の旗本も、ことごとく岩に当たって押しつぶされる。

関羽は急に馬を戻しかけたが、潘璋の伏勢が松明(たいまつ)を投げて前後を阻む。

いよいよ孤立し、関羽が進退窮まったことを確かめると、呉兵は一斉に鼓を打ち、鉦(かね)を鳴らす。獣王を狩り立てる勢子(せこ)のように、ワアッと友軍を呼び、またワアッと友軍へ応えた。

ここで潘璋が馬を進め、関羽に言った。

「羽将軍、羽将軍。すでに趙累の首も打った。いつまで未練の苦戦をなしたまうぞ。潔く兜(かぶと)を脱ぎ、天命を呉に託されい」

ここは「関将軍」ではなく「羽将軍」という呼びかけ方に違和感があった。

関羽は駆け寄るやいな、「匹夫っ。何ぞ真の武魂を知ろうや」と、振りかぶる大青龍刀の下に彼をにらむ。

10合とも太刀打ちせず、潘璋は逃げ奔る。これを追いまくって密林の小道へ迫りかけたとき、四方の巨木から乱離として鉤(かぎ)の付いた投げ縄や分銅が降った。

「乱離として」という表現はイマイチつかめず。「世の中が乱れて人々が離ればなれになること」という意味ではなさそうで、「乱れ飛ぶさま」のような意味合いで使われているが……。

関羽の駒は、また何物かに脚を絡まれていななく。同時に彼は鞍(くら)から落ちた。

そこへ、潘璋の部下の馬忠(ばちゅう)という者が熊手を伸べ、刺股を掛け、ついに関羽をねじ押さえると、群がり寄って高手小手(両手を後ろに回して、二の腕〈高手〉から手首まで厳重に縛る様子)に縛めた。

管理人「かぶらがわ」より

麦城からの脱出劇が丁寧に描かれていました。これは書くのが忍びないかも、などと、いくらか吉川先生の気持ちに近づけた感じがした第237話でした。

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