吉川『三国志』の考察 第033話 「溯江(そこう)」

袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が仲たがいすると、長沙(ちょうさ)にいた孫堅(そんけん)は袁術から密書を受け取る。

これを好機と捉えた孫堅は自ら船団をひきい、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めるべく出撃した。

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第033話の展開とポイント

(01)長安(ちょうあん)

遷都以後、日を経るに従い長安の都は次第に王城街の繁華を呈し、秩序も大いに改まる。

だが、董卓(とうたく)の豪勢なることはここへ移ってからも相変わらずで、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を擁し、その後見をもって任じ、位は諸大臣の上にあった。

自ら「太政相国(だいじょうしょうこく)」と称し、宮門の出入りには金花の車蓋(しゃがい)に万珠の簾(れん)を垂れ込め、轣音(れきおん。車の響く音)揺々と行装の綺羅(きら)と勢威を内外に誇示した。

ある日、李儒(りじゅ)は、盤河(ばんが。磐河)を挟んで戦っている袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)のもとに勅使を遣わし、休戦を勧め両者を和睦させるよう進言する。

さっそく董卓は献帝に奏して詔(みことのり)を得ると、太傅(たいふ)の馬日磾(ばじってい)と趙岐(ちょうき)のふたりを勅使とし関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)へ下した。

『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第7回)では趙岐は「太僕(たいぼく)」とある。

馬日磾は袁紹の陣に行ってこの旨を伝え、続いて公孫瓚の陣にも行き、董卓の和解仲裁の意向を伝えた。ふたりとも渡りに舟とばかりに従う。

ともに同じ日に兵馬をまとめて帰国したが、その後、公孫瓚は長安へ感謝の表を上せ、劉備(りゅうび)を「平原相(へいげんのしょう)」に任じてほしい、との願いも奏した。

公孫瓚が劉備を「平原相(平原国相)」に推薦したことについては、先の第31話(04)を参照。ただ、両者の記述の兼ね合いがイマイチわからない。

(02)北平(ほくへい)?

朝廷からの許しが届くと、劉備は公孫瓚に恩を謝して平原へ発つことになった。送別の宴が散会した後、密かに劉備の宿舎を趙雲(ちょううん)が訪ねてきた。趙雲は随身を願い出るが、劉備は時機を待つよう諭して別れる。

翌日、劉備は関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)らのひきいる一軍の先に立ち、平原へと帰っていった。

(03)南陽(なんよう)

南陽太守(なんようたいしゅ)の袁術(えんじゅつ)は、かつて反董卓連合軍で兄の袁紹の命を受け兵糧方を支配していた。

しかし、南陽に帰ってからも袁紹から何の恩禄も届く様子がないので、書面を送って冀北(きほく)の名馬1千頭を賜りたいと申し入れる。

それでも袁紹は1頭の馬も贈らないばかりか、この申し入れに対し返事すら与えなかった。袁術は大いに恨み、これ以来、兄弟不和となっていた。

だが、兵馬の資財はすべて袁紹から仰いでいたため、たちまち経済的に苦しくなる。そこで荊州(けいしゅう。襄陽〈じょうよう〉)の劉表(りゅうひょう)に使者を遣わし、兵糧米2万斛(ごく)の借用を申し込んだものの態よく断られてしまう。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、袁術が劉表に借用を申し入れたのは食糧20万石(せき)。

怒った袁術は呉(ご)の孫堅(そんけん)に密使を遣わし、先に洛陽(らくよう)からの帰途を絶ったのは袁紹の謀事(はかりごと)だったと明かしたうえ、今また袁紹が劉表と議し、江東(こうとう)を襲おうとしているとも伝え、速やかに荊州を取るよう促した。

この時点で孫堅を「呉の孫堅」と呼ぶのはどうなのか? 確かに孫堅は呉郡の出身なので、「呉(出身の)の孫堅」という意味合いならいいのだろうが……。ここは長沙(ちょうさ)にいるという意味で、「長沙の孫堅」くらいにしておいたほうがよかったと思う。

孫堅の洛陽からの帰途での出来事については、先の第31話(03)を参照。

(04)長沙

孫堅は袁術から密書を受け取ると500余隻(せき)の軍船を整える。ただ、これは袁術の力を頼んだものではなく、自力で兵を起こそうとしたものだった。

(05)襄陽

孫堅が出陣の準備をしているとの知らせが届くと、劉表は軍議を開き諸将に対策を尋ねる。

蒯良(かいりょう)が、江夏城(こうかじょう)の黄祖(こうそ)に要害を防がせ、襄陽の大軍を後軍に備えておけば、大江を隔てた孫堅もさして自由な働きはできないとの意見を述べると、みなもっともな説だと同意した。

(06)長沙

出陣前夜のこと、孫堅のところに弟の孫静(そんせい)が(孫堅の)大勢の子らをひきいて訪ねてくる。

ここで孫堅の妻子についての説明があった。正室の呉氏(ごし)が孫策(そんさく)・孫権(そんけん)・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)の4人を生んだ、というのは史実と同じ。その一方、(正室の)呉氏の妹にあたる寵姫が「孫朗(そんろう)」という男子と「仁(じん)」という女子を生んだというのは、正史『三国志』には見えない設定。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、「孫堅の末子の孫朗は庶子であり、一名を『孫仁』と言った」とある。つまり「仁(孫仁)」は孫朗の別名なのだが、吉川『三国志』ではそれぞれ別人として登場させており、このふたりを同母姉弟として扱っている。

また、「兪氏(ゆし)」という寵妾(ちょうしょう)が孫韶(そんしょう)を生んだ、というのも史実とは異なる設定。史実における孫韶は孫河(そんか。もともと「愈姓」だったともいう)の甥で、孫韶、孫河とも父母は不詳ながら、孫韶を孫堅の息子だとする記事はない。

ちなみに、ここで吉川『三国志』では正室の呉氏を「呉夫人(ごふじん)」、その妹を「呉姫(ごき)」、寵妾の兪氏を「愈美人(ゆびじん)」と、それぞれ表現していた。

孫静は、このたびの出陣は私怨(しえん)だと言い、絶対に見合わせたほうがよいと諫める。

孫堅は聞き入れなかったが、長男で17歳の孫策が初陣を願い出ると、これを許して機嫌を直す。そして次男の孫権には、孫静と留守を護るよう言い渡した。

翌日の夜明け前、孫策は父の出陣の時刻を待たず、早くも一隻の軍船に乗り込み敵の鄧城(とうじょう)へ攻めかかっていた。

夜明けとともに孫堅軍500余隻は揚子江(ようすこう。長江〈ちょうこう〉)へ出たが、孫堅は、孫策が10隻ばかりの兵船をひきいて先駆けしたと聞き、急いで鄧城に向かう。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、樊城(はんじょう)で大敗した黄祖が、樊城を放棄して鄧城に逃げ込むというくだりがある。吉川『三国志』ではこれを省き、いきなり鄧城へ攻めかかったように描いていた。

(07)鄧城

劉表配下の黄祖は沿岸に防御の堅陣を敷いていた。孫策は父の本軍より先に着き、わずかな兵船をもって一気に攻めかかっていたが、陸から一斉に射立てられ近づくことさえできない。そのうち味方の500余隻が到着すると、後方へ退いて船陣に加わる。

孫堅は矢戦(やいくさ)を挑む間に精鋭を上陸させようとしたが、黄祖の反撃を受けるといったん船陣を矢が届かない距離まで退かせた。

ここで作戦を変更。夜に入ってから付近の漁船まで駆り出し、これに無数の小舟を連ね、篝火(かがりび)を焚かせて夜襲を強行するように見せかける。黄祖軍は昼にも増して弩弓(どきゅう)や火矢を射る限り射たが、これらの舟には水夫(かこ)しか乗っていなかった。

夜が明けると、敵に正体を見られないうちに小舟も漁船も四散。また夜になると、同じ策を七日七晩も繰り返した。そして敵が疲れ果てたと見たころ、一夜、今度は本物の強兵を満載して陸へ駆け上り、黄祖の軍勢を散々に追い乱す。

翌日、鄧城へ逃げ込んでいた黄祖は、張虎(ちょうこ)と陳生(ちんせい)のふたりを両翼に、再び猛烈に孫堅軍を撃退しにかかる。

韓当(かんとう)が張虎と陳生に挟み撃ちにされていたところ、孫策の放った一矢が陳生の顔に命中。逃げようとした張虎を韓当が追い、後ろから兜(かぶと)の鉢上を臨んで重ね討ちに斬り下げた。

黄祖は何とか鄧城へ逃げ入ったが、孫堅軍の旗幟(きし)は十方の野を圧した。ただちに孫堅は漢水(かんすい)まで軍勢を進め、別に船手の軍勢を漢江(かんこう。漢水の別名)に屯(たむろ)させた。

(08)襄陽

早馬によって次々と敗報が届けられ、色を失う劉表。蒯良は城の守りを固めつつ、袁紹に急使を遣わし救援を求めるよう進言したが、蔡瑁(さいぼう)が反対する。

井波『三国志演義(1)』(第7回)では、鄧城の城外で孫堅に敗れた黄祖が、敗残兵を集めて(襄陽の)劉表に会いに行き、孫堅の勢いには当たるべからざるものがあると、言葉を尽くして述べ立てたとあった。

蔡瑁は劉表の許しを得、1万余騎をひきいて出陣すると、峴山(けんざん)に布陣した。しかし孫堅は勢いに乗っており、たちまち撃破してしまう。蔡瑁は口ほどもなく、惨めな残兵とともに逃げ帰ってきた。

蒯良は、大兵を損じて逃げ帰った蔡瑁の首を刎(は)ねるよう言ったが、劉表はなだめ、彼を斬ることを許さなかった。この裏には、蔡瑁の妹は絶世の美女であったのだが、近ごろ劉表が彼女を深く愛していたという事情があった。

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(劉表伝)によると、蔡瑁は劉表の妻だった蔡氏の弟にあたるという。

孫堅軍は襄陽城下に至ったものの攻めあぐみ、ようやく兵馬は遠征の疲労と退屈を兆す。

ある日ひどい狂風が吹きまくり、中軍に立ててあった「帥」の字を縫い取ってある将旗の旗竿(はたざお)が折れてしまう。幕僚たちは孫堅を囲み、このへんで一度、軍勢をお退きになってはどうかと勧めた。

だが、孫堅は旗竿が折れたことなど気にかけない。冬の前にこういう朔風(さくふう。北風)が吹くのは冬の訪れを告げるためで、旗竿を折るために吹いてきたわけではないと説き、みなを納得させる。

翌日から、また孫堅軍は大呼し城へ迫ったが、なお襄陽城は頑としていた。

「襄陽城は頑としていた」という表現は微妙かも? ここでは「城が陥落する気配がまったくなかった」という意味だと思うが、これを「(城が)頑としていた」と表現してもいいのかどうか?

管理人「かぶらがわ」より

いったん趙雲と別れる劉備。何でここで別れるかなぁ? と思ったりはしますけど、そういう展開なのだから仕方ないですね。

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(2) 群星の巻 吉川『三国志』
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