吉川『三国志』の考察 第185話「敵中作敵(てきちゅうさくてき)」

曹操(そうそう)は賈詡(かく)の献策を容れ、馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の離間を図る。

曹操の芝居にまんまと騙(だま)された馬超は、韓遂のことが信じられなくなった。ついには韓遂の本営に押し入り、彼の左腕を斬り落とすに至る。ふたりの亀裂は修復不可能になってしまう。

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第185話の展開とポイント

(01)渭水(いすい)の南岸 韓遂の本営

韓遂の幕舎へ、不意に曹操の使いがやってくる。韓遂が受け取った書面を開いてみると、曹操の直筆に違いなく、かつての交わりに触れたものだった。

(02)渭水 曹操の本営

韓遂は旧情を動かされ、翌日、鎧(よろい)も着ず武者も連れず、ぶらりと曹操を訪ねる。ところがなぜか曹操は内へ導かず、自分から陣外へ出てきて、いとも親しげに平常の疎遠を詫びた。

ここで曹操は、かつて韓遂の父とともに孝廉(こうれん)に挙げられ、少壮のころにはいろいろ世話になったと話していた。また曹操から年齢を聞かれた韓遂が、すでに40歳になったと答えていた。建安(けんあん)16(211)年に40歳であるなら、生年は熹平(きへい)元(172)年になるはず。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によると、韓遂は建安20(215)年に亡くなった(異説もある)とき70余歳だったという。この記事が正しければ、彼は永嘉(えいか)元(145)年前後の生まれとなり、曹操より10歳ほど年上になる。

曹操が20歳で孝廉に挙げられ、郎(ろう)となったのは熹平3(174)年のこと。「韓遂の父とともに孝廉に挙げられた」というのは時代的にどうなのだろうか?

なお『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第59回)では、曹操が韓遂の父と同年の孝廉に推挙されたこと。さらに、韓遂とは同時に役人となったことが描かれていた。このとき韓遂が、今年40歳になったと話していることも吉川『三国志』と同じだったので……。これらを踏まえても創作の韓遂像がイマイチ見えない。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(孝廉は)後漢(ごかん)の官僚登用制度である郷挙里選(きょうきょりせん)の通常の科目名」だという。

曹操は、こちらから書面を出しながら失礼だと言いながらも、折悪く幕中に諸将を会して要談中であることを告げる。

韓遂は「いや、また会いましょう」と気軽に戻ったが、この様子を見ていた者がいて、ありのままを馬超に話した。

(03)渭水の南岸 馬超の本営

翌日、馬超はほかの用事に事寄せて韓遂を呼び、「時に貴公は昨日、渭水のほとりで曹操と何か親しげに密談をしておられた由だが――」と切り出す。

韓遂は顔の前で手を振り、青空の下での立ち話で、密談などした覚えはないと答える。少年時代、ともに都(洛陽〈らくよう〉)にあったことなどを、いくらか話して別れただけだと。

馬超は妬ましげな目をしたが、韓遂はまったく後ろ暗いこともないので、笑い話をして帰った。

(04)渭水 曹操の本営

その晩、曹操は密やかな陣中の一房へ賈詡を呼び寄せていた。賈詡は今日の計を妙趣だとしながら、もうひとつ足りないとも言う。

そしてもう一度、韓遂に宛てて親書を書くよう勧める。文字などもわざと朧(おぼ)ろにしたため、肝要らしいところは思わせぶりに朱筆で塗りつぶし、なお削り改めたりなどし、一見、恐ろしく複雑で重要そうに見えさえすればいいとも。

(05)渭水の南岸 韓遂の本営

その後、馬超は腹心の男をして密かに韓遂の陣門に立たせ、出入りを見張らせていた。

今夕、またも曹操の使いらしき男が書簡を届けて立ち去ったと聞くと、馬超は夜食も取らずに韓遂の陣門を叩く。

韓遂は迎え入れたうえ、たったいま曹操から送られてきたという書簡を見せる。

馬超は見入っていたが、辞句は不明だし、諸所に克明な筆で塗りつぶしたり書き入れがしてあった。やがて袂(たもと)へ入れ、その書簡を借りていく。

(06)渭水の南岸 馬超の本営

翌日、韓遂が呼ばれて出向くと、馬超は少し血相を変えており、「昨夜(ゆうべ)、立ち帰ってから書簡を灯に透かしてみると、どうも不穏な文字が見える。まさか御身(あなた)は、この馬超を曹操へ売る気ではあるまいな?」と言う。

韓遂も色をなしたが、先ごろから馬超の様子が変だったことの原因がわかった。そこで、申し開きをするよりは事実をもって、きみに対する信を明らかにすると言う。

明日、わざと城寨(じょうさい)を訪ね、過日のように陣外で曹操と談笑するから、あなたは付近に隠れ、不意に討ち止めてほしいと。

(07)渭水の北岸 氷の城

翌日、韓遂は幕下の李堪(りたん)・馬玩(ばがん)・楊秋(ようしゅう)・侯選(こうせん)らを連れ、ぶらりと曹操の城寨を訪ねる。

李堪について手元にある3種類の吉川『三国志』を見比べてみると、講談社版(新装版および別の古いもの)では「李湛(りたん)」となっていたが、この新潮社版では「李堪」となっていた。なお『三国志演義』や正史『三国志』でも「李堪」となっているので、この直しはアリだと思う。

曹操は先ごろから例の氷城に戻っていたが、取り次ぎの言葉を聞くと曹仁(そうじん)に何かささやき、代わりに出るよう言った。

曹仁は衆将を従えて、恭しく陣門から出てくると、馬上のまま韓遂のそばに寄り添って言う。

「いや、昨夜はお手紙をありがとう。丞相(じょうしょう。曹操)もたいへん喜んでおられる。しかし、事前に発覚しては一大事。随分ご油断なく、馬超の目にご注意を」

こう言い捨てるとサッと立ち去り、何を言う間もなく陣門を閉めてしまった。

物陰にいた馬超は激怒し、韓遂が帰るやいな、成敗すると猛(たけ)ったものの、旗本たちに抱き止められて悶々(もんもん)と剣を収めた。

(08)渭水の南岸 韓遂の本営

韓遂が悄然と戻ると、八旗の将のうちの5人がさっそく来て慰める。

八旗の将については先の第182話(04)を参照。

楊秋・李堪・侯選などは、代わるがわる曹操に降るよう勧めた。みなすでに馬超を見限っているもののようだった。

ここに至り、ついに韓遂も変心を生じてしまう。楊秋を密使に立て、その晩、密かに曹操に款を通じた。

井波『三国志演義(4)』(第59回)では、大いに喜んだ曹操が韓遂を西涼侯(せいりょうこう)に封じ、楊秋を西涼太守(せいりょうたいしゅ)に任じたとあり、ほかの者にもすべて官爵を与えたともある。

曹操からは懇篤な返書とともに、極めて綿密な一計を授けてきた。明夕、馬超を招き、宴を催せという。油幕の四囲に枯れ柴(シバ)を積み、まず火をもって馬超を窒息させよと。その火を見たら曹操自身が迅兵をひきいて協力し、彼を生け捕りにするとも。

迅兵は機動力のある兵という意味だと思うが、いくらかイメージしにくい印象を受けた。先の第15話(02)にも似た用例が見えている。

翌日、韓遂は5人の腹心を集めて協議した。曹操から言ってきた策は必ずしも万全と思えないからだった。

だが楊秋・侯選・李堪らは、弁舌をもってうまく馬超を案内してくると請け合う。韓遂も宴席の準備を整え、前祝いにと一献酌み交わして手はずをささやいていた。そこへ突然、馬超が乗り込んでくる。

韓遂は戟(げき)を取る間もなかったので、左の肘を上げて身を防ぐ。馬超の剣は、その左腕を付け根から斬り落とした。なお馬超が追い回すと、5人の腹心が左右から打ってかかる。油幕の外は火になった。

馬超の前を妨げた馬玩はたちどころに殺され、龐徳(ほうとく。龐悳)や馬岱(ばたい)なども、韓遂の部下を手当たり次第に誅殺した。

ここでは馬玩の名しか挙げられていなかったが、井波『三国志演義(4)』(第59回)では梁興(りょうこう)も斬り倒されていた。

ところが、たちまち渭水を渡ってきた騎兵部隊が、物も言わずに炎の中へ駆け込んでくる。許褚(きょちょ)をはじめとして、夏侯淵(かこうえん)・徐晃(じょこう)・曹洪(そうこう)など、曹操軍の驍将(ぎょうしょう)はことごとく出そろっていた。

馬超は手はずが整っていたことを察し、急に陣外へ駆け出したが、はや龐徳は見えず、馬岱も見当たらない。西涼勢の混乱は言うまでもなく、各所の軍営からは濛々(もうもう)と黒煙が上がっていた。日は暮れたが炎は天を焦がし、渭水の流れは真っ赤だった。

管理人「かぶらがわ」より

賈詡の献策が見事にはまり、韓遂に疑心を抱く馬超。先には親しげな密談の演出もあったので、これを看破するのは難しそうですね……。

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