吉川『三国志』の考察 第122話 「食客(しょっかく)」

曹操(そうそう)に汝南(じょなん)を追われて以来、劉備(りゅうび)主従は荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていた。

彼らの立場は規模の大きい食客のようなものだったが、劉表のほうでも劉備らをうまく活用しようとする。しかし、この状況を不快に感じていた劉表配下の蔡瑁(さいぼう)は――。

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第122話の展開とポイント

(01)冀州(きしゅう。鄴城〈ぎょうじょう〉)

北方攻略の業の完成をみた曹操(そうそう)だったが、この地がよほど気に入ったとみえ久しく逗留していた。そして1年余りの工を積み、漳河(しょうが)のほとりに銅雀台(どうじゃくだい)を築いた。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)では、曹操がこの地から銅雀を掘り出したことに触れていた。

その広大な建物を中心に楼台や高閣を巡らせ、一座の閣を玉龍(ぎょくりゅう)と名付け、一座の楼を金鳳(きんぽう)と唱え、それらの勾欄(こうらん)から勾欄へ架するに虹(にじ)のように7つの反り橋をもってした。

曹操は息子の曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)を鄴城に留め、約3年にわたる破壊と建設の一切を完了し悠々と許都(きょと)へ引き揚げる。

ここで曹植(曹子建〈そうしけん〉)のことを曹操の次男だと言っていた。先に戦死した曹昂(そうこう)を数に入れないとしても、曹丕と曹植の間には曹彰(そうしょう)がいるので、曹植を次男とするのはおかしいと思う。

曹昂の戦死については先の第64話(05)を参照。

(02)許都

曹操は久しぶりに参内。天子(てんし。献帝〈けんてい〉)に表を捧げ朝廟(ちょうびょう)の変わりない様子を見、続いて大規模な論功行賞を発表した。

また、亡き郭嘉(かくか)の子の郭奕(かくえき)を取り立てるなどし、宰相としての彼は陣中以上に繁忙だった。

郭嘉の病死については前の第121話(05)を参照。

(03)荊州(けいしゅう。襄陽〈じょうよう〉?)

当時、食客は天下の到る所にいた。3千の兵、数十人の将、ふたりの兄弟、そのほか妻子眷族(けんぞく)まで連れていても、国を失い他国の庇護(ひご)の下に養われれば、これもまた大なる食客だった。

井波『三国志演義(3)』の訳者注によると「この当時、荊州の州庁は襄陽に置かれていたので、荊州城すなわち襄陽城ということになる」という。

さらに「本書(『三国志演義』)の作者は、行政単位としての荊州と州庁所在地としての荊州とを明確に区別していないため、しばしば叙述の混乱を招いている」ともいう。

この吉川『三国志』においても『三国志演義』を踏襲しているため同様の混乱が見られる。できるだけ補足するようにしたいが、どうしても区別しにくいところは残ってしまう。

いま荊州にある劉備(りゅうび)はそうした境遇だった。だが、食客もただ徒食してはいないし、養っている国も遊ばせてはおかない。

江夏(こうか)で乱が起こった。張虎(ちょうこ)と陳生(ちんせい)という者が、略奪や暴行から進んで反乱の火を上げたのである。

井波『三国志演義(3)』(第34回)では、張虎を張武(ちょうぶ)と、陳生を陳孫(ちんそん)と、それぞれしていた。

なお吉川『三国志』では、先の第33話(07)で陳生が孫策(そんさく)に、張虎が韓当(かんとう)に、それぞれ討たれたことになっている。なのにここで再び張虎と陳生を登場させているため読み手にはわかりにくい。『三国志演義』のような別名にしたほうがよかったのではないか?

それから数日後、劉表が嘆息して彼に諮った。漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)と呉(ご)の孫権(そんけん)が、いつも頭痛の種なのだという。

そこで劉備はある案を出す。張飛(ちょうひ)を南越(なんえつ)の境に遣り、関羽(かんう)に固子城(こしじょう)を守らせて漢中に備えさせ、趙雲(ちょううん)に兵船を任せて三江(さんこう)の守備を厳にすればよいと。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると「固子城は荊州に属し、益州(えきしゅう)との境に位置した。なお、この地名は後漢(ごかん)・三国時代にはなかった」という。

また「南北朝(なんぼくちょう)時代の南斉(なんせい)の時、現在の湖北省(こほくしょう)境に固城(こじょう)が置かれており、『三国志演義』の固子城はこれに該当するのかもしれない」ともあった。

劉表は彼の案に同意したが、これを蔡瑁(さいぼう)に語ったところ、あまり感服しない顔色を見せた。蔡瑁は、劉表の夫人であり、また自分の妹でもある蔡氏を後閣に訪ね、劉備のことをそれとなく諫めるよう頼む。

井波『三国志演義(3)』(第34回)では、蔡氏は蔡瑁の姉とあり、『後漢書(ごかんじょ)』(劉表伝)の記事とも合っている。

その後、蔡氏は夫とふたりきりの折、劉備主従についてのあることないことを様々に謗(そし)った。

それをみな真に受けるほど劉表も妻に甘くはないが、何となく一抹の不安を持ったことは否めない。

閲兵のため城外の馬場に出た日、劉表はふと劉備の乗っている馬を見、嘆賞してやまなかった。劉備は、それほどお気に召されたのならと、自ら口輪を取り献上する。

劉表がその馬に乗り換え城中へ帰ってくると、門側に立っていた蒯越(かいえつ)が、「おや、的盧(てきろ)だ」とつぶやいた。

劉表が聞きとがめたところ蒯越は理由を述べる。彼の兄は馬相を見る名人で、弟の自分も、自然と馬相について教わっていたのだという。

ここでは蒯越の兄の名が出てこなかったが、井波『三国志演義(3)』(第34回)によると蒯良(かいりょう)のこと。ちなみに蒯良は先の第33話(05)で既出。

これを乗用する者に必ず祟(たた)りをなすと、古来から忌まれているもので、そのため張虎もこの馬に乗って討ち死にしたのだとも話す。

翌日、劉表は酒宴の席で劉備に馬を返すと言い、また別に、一族や部下を連れ新野城(しんやじょう)を守ってもらえないかと切り出す。劉備は即座に命を拝し数日後には新野へ向かう。この際、劉表は城外まで見送った。

(04)荊州(襄陽?)の郊外

一行が城外を数里(すうり)行くと、ひとりの高士が劉備の馬前に長揖(ちょうゆう。簡単な敬礼。両手を組み合わせて上げ下ろしする)して告げる。

「先ごろ城内で蒯越が劉表に説いていました。的盧は凶馬だと。乗り手に祟りをなすと。どうか馬をお換えください」

それは劉表の幕賓の伊籍(いせき)だったが、劉備は馬を下り礼を述べながらも、気にする素ぶりは見せない。手を取って笑い、さわやかに別れを告げると再び新野の道へ向かった。

(05)新野

新野は一地方の田舎城だったが、ここへ来てから劉備の正室の甘夫人(かんふじん)が男児を産んだ。お産の明け方、一羽の鶴(ツル)が県衙(けんが。県の役所)の屋根に飛んできて、40余声も鳴いてから西へ翔(か)け去ったという。

また、甘夫人が懐妊中に北斗星を呑む夢を見たというので幼名を阿斗(あと)と付け、すなわち劉禅(りゅうぜん)阿斗と称した。時は建安(けんあん)12(207)年の春だった。

幼名の阿斗はいいとしても、この時点で劉禅阿斗と称したという説明はおかしいと思う。さらに、先の第99話(02)で登場していた(劉備の)6歳の病弱な一子とここで生まれた阿斗(後の劉禅)との関係がわからず困惑。

劉備は再三再四、劉表に向かい、「今こそ志を天下に成すときですが――」と勧めたが、彼はまったく動く気配を見せなかった。

劉表には二子があり、長男の劉琦(りゅうき)は前妻の陳夫人(ちんふじん)が産んだ子で、次男の劉琮(りゅうそう)は後妻の蔡夫人が産んだ子だった。

劉琦は賢才の質ながら柔弱だった。そこで劉琮を立てようとしたが、長子を廃するのは国乱の始めなりと、俄然(がぜん)、紛論が起こり沙汰やみになる。

それならばと、礼に従って劉琮を除こうとしたところ、蔡瑁や蔡夫人らの勢力が隠然と物を言い、背後から劉表を苦しめ惑わせた。

劉備は折々に登城しては、彼に天下の機微や風雲を語ってみたが、こういった家庭内の女々しい愚痴ばかり聞かされるので密かに見限っていた。

(06)荊州(襄陽?)

ある折の酒宴の半ば、劉備は厠(かわや)から座に戻ると、しばらく黙然と興もなげにさしうつむいていた。劉表がいぶかると、劉備は厠でふとわが身を顧み、髀(もも)の肉が肥え膨れていることに気づいたと話す。

ここで劉表が、以前に許都で劉備と曹操が英雄を論じたときの話を聞いたと言うと、いつになく感傷的になっていた劉備は、「曹操ごとき何かあらんです。もし私が貧しくても一国を持ち、それに相応する兵力さえ持てば……」と、つい口を滑らせかけた。

曹操と劉備が英雄について論じたことは、先の第82話(01)を参照。

劉表は猜疑(さいぎ)に捕らわれた目で寝顔を見守っていたが、自分の住居の中に巨大な龍が横たわっているような恐怖を覚えた。

あわてて座を立つと、衝立ての陰にたたずんでいた妻の蔡氏がふと寄り添ってささやく。常には慎んでいても、酔えば性根は隠せない。劉備は本性を見せたのだと。

劉表はうめいたきり黙然と奥の閣へ隠れる。煮えきらない様子に蔡氏はイラ立つが、夫が十分に疑いを抱いていることも確かなので、急に兄の蔡瑁を呼んで諮った。蔡瑁は任せてくれと請け合い、夕方までの間に極秘裏に一団の兵を整え、夜が更けるのを待つ。

(07)荊州(襄陽?) 劉備の客舎

ところが、日ごろから劉備に好意を持っている伊籍がちょうど城下に来ており、ふと蔡瑁の動きを耳に挟んだ。

さっそく伊籍は劉備の客舎へ贈り物として果物を届け、その中に密封した一書を隠す。劉備は書面を見て驚く。蔡瑁の兵が夜半にここを取り囲むだろうとあったのだ。

劉備は夕食も半ばに客舎の裏から脱出。従者も散りぢりに逃げて後から追いついた。

事情を知らない蔡瑁は五更(ごこう。午前4時前後)のころを見計らい、一斉に鉦(かね)や鼓を打ち鳴らして殺到する。客舎がもぬけの殻であるのに気づくと、追手をかけてみたが得るところもなかった。

そこで一計を案じ、自分が作った詩を部下のうちで偽筆が巧みな者に命じて壁に書かせる。そのうえで劉表に一大事だと告げ、劉備とその部下たちが荊州を奪わんと、城下に来るたびに地形を測り、攻め口を考究していたと伝えた。

不穏な密会のうわさを聞き様子を探らせていたところ、事が発覚したと見た劉備が、一詩を壁に書き残し新野へ逃げ失せたとも。

劉表は壁の詩を見に行くが、「詩などは戯れに作ることもある。もう少し彼の様子を見てからでも……」と言い城中へ戻ってしまった。

管理人「かぶらがわ」より

大勢で劉表の世話になっている劉備。衣食の心配こそないものの、秘めたる大志が口をついて出てしまいました。

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吉川『三国志』 (05) 孔明の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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