吉川『三国志』の考察 第099話 「大歩す臣道(たいほすしんどう)」

条件付きながら関羽(かんう)を降すことに成功し、許都(きょと)へ凱旋(がいせん)する曹操(そうそう)。

その後も何かと関羽に目をかけ、宴会を開いたり豪華な品物や美女を贈ったりしたが、どうしても彼の心はつかめない。

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第099話の展開とポイント

(01)下邳(かひ)の郊外

3つの条件を提示したうえ、一時、曹操(そうそう)への降伏を決めた関羽(かんう)。

関羽が提示した3つの条件については、前の第98話(03)を参照。

張遼は山を下りるよう促すが、なお関羽は少々の猶予が欲しいと言う。下邳城で保護されている劉備(りゅうび)の二夫人から御意を仰がないうちは、曹操の陣門に駒をつなぐわけにはいかないのだと。

関羽は張遼に、ふもとの軍勢を30里(り)外に退かせるよう曹操に伝えてほしいと頼み、その後、必ず陣門に降伏して出ると約束。

曹操はこの言葉を聞くと、諸軍に小山の包囲を解き30里外に退くよう命ずる。荀彧(じゅんいく)は、まだ関羽の心底はよくわからないと諫めたが、曹操は快然一笑し、ためらいなく全軍を遠く退かせた。

(02)下邳

曹操軍が包囲を解くのを眺めていた関羽は、馬でふもとまで下り、無人の野を疾駆して下邳城へ入る。そして、城内の民の安穏を見届けてから城の奥へ隠れた。

関羽は深院の後閣で、劉備の正室の甘夫人(かんふじん)と側室の糜夫人(びふじん。麋夫人)に再会。二夫人に、一時、曹操に降って、主君(劉備)の行方を捜すつもりだと伝える。

ここで二夫人が幼児の手をひいてまろび出てきたという記述があった。この幼児が後の劉禅(りゅうぜん)なのかと思ったが、史実の彼は建安(けんあん)12(207)年生まれであり、どうも時代にズレがある。吉川『三国志』の創作と見るべきか?

なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第25回)では、関羽が二夫人と再会した際、劉備の子については触れていない。

一夫多妻を伝統としているこの民族の間では、劉備の室など至極、寂しいほうだった。

甘夫人は糜夫人より若い。沛県(はいけん)の人で、そう美人というほどでもない。単に清楚(せいそ)な婦人である。

美人の面影は、むしろ年上の糜夫人のほうに偲(しの)ばれる。それも道理で、もう女の三十路を越えているが、青年時代の劉備に初めて恋心を知らしめた女性なのである。

今を去ること十何年か前、まだ劉備が沓(くつ)を売り蓆(むしろ)を織っていた逆境の時代、黄河(こうが)のほとりに立って洛陽船(らくようぶね)を待ち、母の土産に茶を求めて帰る旅の途中、広野で巡り会った白芙蓉(はくふよう)という佳人が今の糜夫人だった。

五台山(ごだいさん)の劉恢(りゅうかい)の家に養われ、久しく時を待っていた彼女は、その後、劉備に迎えられ室に侍したものだった。

劉備が黄河のほとりで洛陽船を待っていたことについては、先の第1話(01)を参照。

劉備が白芙蓉と出会ったことについては、先の第3話(02)を参照。ただ、このタイトルには(「はくふよう」ではなく)「びゃくふよう」というルビが付けられていた。

また、姓名が鴻芙蓉(こうふよう。姓が鴻、名が芙蓉)となっており、張飛(ちょうひ)が仕えていた鴻家の息女ともあった。その鴻芙蓉(白芙蓉)こそ、この第99話の糜夫人なのだというが、理由がわからず困惑。いつの間にか鴻氏から糜氏に姓が変わっているし――。

史実でも麋氏は劉備の夫人だが、麋竺の妹とある。これに合わせる形で吉川『三国志』でも、「鴻芙蓉(白芙蓉)が糜家の養女になったあと劉備に嫁いだ」などとすればよかったのでは? とも思うが、いずれにせよ設定に混乱が見られる。

これは単に劉備の一子という意味合いなのか、糜夫人が生んだ劉備の一子という意味合いなのかつかめなかった。この問題は設定を考えるうえで意外と重要。このとき(建安5〈200〉年)6歳であるなら、興平(こうへい)2(195)年生まれということになるはず。

劉備の母は徐州城(じょしゅうじょう)にいたころ世を去っていた。劉備としては不足だったが、老母としては十分に安心して逝ったであろうほど、子が世に出たのも見て逝った。

ここまでは劉備の母と妻子について語られており、とりあえず拾っておいた。突っ込みどころ満載の観がある。

ふたりは関羽の話を聴き、もし夫の居所がわかってもおそばへ行けないのではないかと気色ばんでなじる。関羽は曹操と約束した条件について話し、ふたりから承諾を取り付けた。

(03)下邳の城外 曹操の本営

やがて関羽は残兵10騎ばかりを従え、悠々と陣門にやってくる。曹操は自ら轅門(えんもん。陣中で車の轅〈ながえ〉を向かい合わせ、門のようにしたもの)まで出迎え、あいさつを交わすと先に立ち案内する。

関羽がついていくと、すでに一堂には花卓玉盞(ぎょくさん)が整えられ、盛宴の支度ができていた。

曹操は関羽を賓客のように扱い、おもむろに対談し始める。関羽は、先に張遼を通じて聞き届けてもらった3つの約束についての礼を述べた。

曹操も改めて違背なきことを誓ってみせ、それから関羽を酒宴の席へと導き、配下の幕僚たちと引き合わせる。万歳の杯を挙げ諸将もみな酔ったが、平常でも朱面の関羽の顔が誰よりも赤かった。

こうして徐州地方における曹操の一事業は済み、翌日、その中軍は早くも凱旋の途に就く。関羽も二夫人の車を守り、以前からの部下20余人とともに付き従った。

(04)許都(きょと)

許都に到着すると関羽は曹操から一館をもらい、そこに二夫人を住まわせる。一館の邸宅を内外の両院に分け、深院には夫人たちを奉じ、外院には自分と士卒らが住んだ。

両門の脇(わき)には日夜、20余人の士卒が交代で立つ。関羽も時々その門番小屋の中にいて、書物などを読みながら、手不足な番兵の代わりを務めている日もあった。

(05)許都 丞相府(じょうしょうふ)

曹操は、軍務や山積している内外の政務を一段落させるとふと思い出し、侍臣から関羽の近況を聞く。

(06)許都 禁中(宮中)

その数日後、曹操は急に関羽を参内の車に誘う。そして朝廷に伴い、天子(てんし)にまみえさせた。

献帝(けんてい)は、関羽が劉備の義弟であることを聞くと、しかるべき官位を与えるよう命ずる。関羽は曹操の計らいにより、即座に偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられた。

(07)許都 丞相府?

まもなく曹操は、関羽の勅任の披露宴を兼ねて祝賀の一夕を催し、諸将や百官を呼び馳走(ちそう)する。

関羽は上賓の座に据えられたが、その晩も黙々と飲んでいるだけで、うれしいのか迷惑なのかわからない顔をしていた。

宴が終わると、曹操はわざわざ数人の近臣に関羽を送っていくよう命じ、綾羅(りょうら。模様を織り出した絹と薄い絹)100匹(ぴき)、錦繡(きんしゅう)50匹、金銀の器物、珠玉の什宝(じゅうほう)などを馬に付けて贈った。

ところが、関羽はそのひとつすら身には持たず、すべて二夫人に献じてしまう。これを後で聞いた曹操はかえって尊敬を抱く。

その後の曹操は3日に小宴、5日に大宴という具合に供応の機会を作り、関羽を見ることを楽しみとしていた。

許都の中から選りすぐった美女10人に、関羽を口説き落としたら何でも望みをかなえてやると言い含め、嬌艶(きょうえん)な媚(こび)を競わせたりもした。

関羽は珍しく大酔して笑っていたが、屋敷に帰るとすぐ二夫人に、その10人の美女も侍女として献じてしまった。

管理人「かぶらがわ」より

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吉川『三国志』 (04) 臣道の巻
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