吉川『三国志』の考察 第251話「この一戦(このいっせん)」

孫権(そんけん)は曹丕(そうひ)から呉王(ごおう)に封ぜられたものの、魏(ぎ)は蜀軍(しょくぐん)を牽制(けんせい)するような動きを見せない。

やむなく孫権は、甥の孫桓(そんかん)に副将として朱然(しゅぜん)を付け、総勢5万の軍勢を与えて宜都(ぎと)へ急がせる。ところが初陣の孫桓は、蜀の関興(かんこう)や張苞(ちょうほう)に大敗してしまう。

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第251話の展開とポイント

(01)白帝城(はくていじょう)

その後、蜀の大軍は白帝城もあふるるばかりに駐屯していたが、あえて発せず、おもむろに英気を練り、ひたすら南方と江北(こうほく)の動静をうかがっていた。ここへ諜報(ちょうほう)が入る。

「呉は魏へ急きょ援軍を求めたようですが、魏はただ呉王の位を孫権に贈ったのみで、曹丕の態度は依然、中立を固持しております」

劉備(りゅうび)は自身の予測が誤っていないと見ると、ここに初めて、断固として帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)から令を下した。

このとき南蛮(なんばん)の沙摩柯(しゃまか)が、蛮土の猛兵数万を従えて参加するし、洞渓(どうけい)の大将の杜路(とろ)と劉寧(りゅうねい)も手勢を挙げて加わる。

そのため蜀軍の戦気はすでに呉を吞み、水路の軍船は巫口(ふこう)へ、陸路の軍勢は秭帰(しき)の辺りまで、それぞれ進出した。

(02)建業(けんぎょう)

呉は異常な緊迫感に襲われつつも、一方では魏の動きとにらみ合わせる心理を多分に持っていた。だが、魏は兵を出さない。

いよいよ孫権は一国対一国の大勝負を決意し、これを群臣に諮ったものの、閣議は粛然と無言の緊張を持つのみで、誰ひとり自らこの一戦にあたらんと意気を上げる者もない。

すると、一隅から立って名乗りを上げた者がいた。孫権の甥にあたる武衛都尉(ぶえいとい)の孫桓で、まだ25歳の青年である。

孫桓は建安(けんあん)3(198)年生まれ。この年(魏の黄初〈こうしょ〉2〈221〉年)には25歳ではなく24歳だった。

孫権は喜ばしげに、彼の願いを許して言った。

「そちの家には李異(りい)と謝旌(しゃせい)という万夫不当の勇将をふたりも養っているそうだな。大いによかろう、行ってこい。なお副将には、老練な虎威将軍(こいしょうぐん)の朱然を付けてやる」

(03)宜都

かくて呉軍5万は宜都まで急ぐ。朱然は右都督(ゆうととく)、孫桓は左都督(さととく)として、おのおの2万5千を両翼に分かち、蜀軍と対峙(たいじ)した。

白帝城を出て秭帰を経、この宜都までの間、蜀軍は進むところを席巻。各地で帰降兵を収容し、ほとんど台風の前に草木もないような勢いだった。

(04)宜都の城外 劉備の本営

劉備が敵を眺めていると、関興が先陣を願い出る。先に先陣を争って、喧嘩(けんか)になりかけた例があるので、義弟の張苞も連れていけと、条件付きで許した。

関興と張苞は勇躍して手勢を分け、まるで黒旋風(くろつむじ)のごとく、呉軍へ駆け入る。すぐに劉備は馮習(ふうしゅう)と張南(ちょうなん)を呼び、強兵をすぐって若いふたりの後に続くよう命じた。

(05)宜都の城外

結果は実に蜀の大勝利となる。呉の孫桓も若く、初陣でもあったため、関興と張苞に完膚なきまでに全陣地を蹂躙(じゅうりん)された。

しかも、左右の旗本と頼んでいた謝旌は張苞に討たれてしまうし、李異は矢が当たって逃げるところを、後ろから迫った関興のため、その大青龍刀で真っぷたつにされてしまうという惨敗を被ったのである。

ただ、張苞はあまりに深入りしたので、気づいて引き返そうとすると、関興の姿が見えない。もしやと、さらに敵中へ駆け入って、「義兄。義兄よ」と声の限り捜していた。

(06)宜都の城外 劉備の本営

広野に日も落ち、辺りが真っ暗になっても、関興と張苞は帰らない。劉備は野辺の陣に立って、ひたすら待ち焦がれていた。

ようやく、ふたりが馬を並べて引き揚げてきた。呉でも有名な譚雄(たんゆう)という猛者を捕虜として連れていた。

話を聞いた劉備は、ふたりの肩を叩いて褒める。譚雄の首を刎(は)ね、篝火(かがりび)を焚いて、人馬の魂魄(こんぱく)を祭り、一同へ酒を賜う。

(07)宜都の城外 孫桓の本営

序戦に大敗を喫したのみか、3人の大将までも討たれ、孫桓は慙愧(ざんき)する。とりあえず陣を一歩退き、備えを立て直す。兵は多く損じても、戦意はいやがうえにも熾烈(しれつ)だった。

(08)宜都の城外 劉備の本営

蜀軍は次の戦機をうかがいながら、馮習・張南・関興・張苞はすべて同じ意見だった。

「あの意気では、再び同じ戦法で臨んでも、先ごろのような快勝はつかめまい」

そこで一計を巡らせ、密かに手配にかかる。

(09)長江(ちょうこう)の江岸 朱然の本営

呉の左翼たる陸軍は敗れても、近き江岸にある右翼の水軍は無傷だった。ある日、江岸の哨戒隊が蜀の一兵を捕らえ、水軍の都督部(ととくぶ)へ引っ張ってくる。

取り調べを受けた蜀兵が答えた。

「主人の馮習の密命で、今夜、孫桓の陣へ火を放って夜討ちをかけるから、昼の間に付近へ潜んでいろと言われたのです。そうして50人ばかりで出てきましたが、後から油を運んでくる間に部隊の者とはぐれてしまったのです」

これを聞いた朱然は、手を打って喜ぶ。

「兵を陸へ上げて、蜀軍が夜討ちに進む退路を断ち、逆に孫桓と示し合わせて挟み撃ちにしてやろう」

すぐに書簡をしたため、孫桓の陣へ使いを遣った。ところが使いは、途中で待ち伏せしていた蜀の兵に斬られてしまう。これはまったく馮習や張南の巡らせた計略なので、使いが通ることを未然に察していたためである。

そうとも知らずその夕方、朱然は大軍を船から上げ、すでに進もうとした。しかし崔禹(さいう)が注意して言う。

「どうも少しおかしい。一士卒の言葉を盲信して、これだけの行動を起こすのは、ちと軽率です。やはり都督は水軍を守ってここにいてください。それがしが行きますから」

朱然も思い直し、自身は水軍に控えて崔禹に任せ、1万足らずの兵を預けた。

(10)宜都の城外 孫桓の本営

二更(午後10時前後)のころ、孫桓の陣に猛烈な火の手が上がる。火攻めのあることは、昼のうちに朱然から通じて承知していたが、その使いが、途中で斬られていたことまでは崔禹も思い至らなかった。

助けに行こうとにわかに急ぐと、森林や低地から待っていたとばかりに伏兵が起こる。関興と張苞の軍勢だった。

(11)長江の江岸 朱然の本営

崔禹は生け捕られ、部下たちは大打撃を受けてなだれ帰る。朱然は周章し、その晩のうちに船手の総勢を、5、60里ほど下流へ退げた。

一度ならず二度まで敗北した孫桓は、ことごとく陣営を焼かれ、やむなく夷陵城(いりょうじょう。彝陵城)へ退却。蜀は仮借なく追い込み、崔禹の首を刎ねて、いよいよ威を示した。

(12)建業

序戦二回の大敗報は、建業城中を暗澹(あんたん)とさせる。張昭(ちょうしょう)は孫権を励まして言った。

「王。さまで御心(みこころ)を痛めることはありません。呉建国以来の名将は世を辞して幾人もありませんが、なお用うべき良将は10余人ありましょう。まず甘寧(かんねい)をお召しなさい」

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第82回)では、ここで張昭は韓当(かんとう)を正将、周泰(しゅうたい)を副将、潘璋を先鋒、凌統(りょうとう。淩統)を後詰め、甘寧を遊軍とし、10万の軍勢を動かして劉備を防ぐよう進言していた。

管理人「かぶらがわ」より

蜀軍の勢いに押されまくる呉軍。意気込んで先鋒を買って出た孫桓でしたが、この序戦ではいいところがなかったですね。副将の朱然も冴えないままの後退となりました。

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