吉川版『三国志』の考察 第252話 「冬将軍(ふゆしょうぐん)」

快進撃を続ける蜀軍(しょくぐん)は陣中で222年の正月を迎えた。劉備(りゅうび)が諸将と酒を酌み交わしながら述懐するのを聞き、黄忠(こうちゅう)はもうひと働きせんとばかりに、わずか10騎ほどで呉陣(ごじん)へ向かう。

黄忠は潘璋(はんしょう)の陣を搔(か)き回し戦果を上げたが、翌日には一転して危地に追い込まれる。重傷を負った黄忠は自陣まで運ばれ、劉備らが見守るなか息を引き取った。

第252話の展開とポイント

(01)劉備(りゅうび)の本営

冬が来た。連戦連勝の蜀軍(しょくぐん)は巫峡(ふきょう)・建平(けんぺい)・夷陵(いりょう。彝陵)にわたる70余里(り)の戦線を堅持したまま、章武(しょうぶ)2(222)年の正月を迎える。

このとき劉備の本営がどこにあったのかわからなかった。井波版『三国志演義』(第83回)を見ると「秭帰(しき)」のようだが……。

賀春の酒を近臣に賜うの日、劉備も微酔してこう述懐した。

「雪か、わが鬢髪(びんぱつ)か……。思えば朕も老いたが、帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所)の諸大将も多くは年老い、冬の陣も耐え得るにこたえてきた。しかし、関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)の若いふたりが役立ってきたので朕も大いに気づよく思うぞ」

するとその日の昼すぎ、「黄忠(こうちゅう)がわずか10騎ばかりを連れ、呉(ご)へ投降してしまった」との風聞が伝わる。

劉備は告げる者に笑い、みなにこう言った。

「いや、黄忠は今朝ここにおった。さだめし老気を励まし呉へ討ち入ったものであろう。朕の述懐こそ心なきつぶやきであった。哀れや彼も70の老武者。過ちさせては不憫(ふびん)である。関興、張苞、すぐ行って救え」

(02)夷陵の城外 蜀の軍営

劉備の推察は誤っておらず、実に黄忠はその通りな気持ちで、わずか10騎を連れ敵中にひと働きしてみせんと考えていた。

途中で夷陵の陣地を通ると、馮習(ふうしゅう)と張南(ちょうなん)が見かけ「老将軍(ろうしょうぐん)、どこへ行かれるのか?」と尋ねる。

黄忠は慨然と天子(てんし)の述懐を物語り、これから呉軍にひと泡吹かせ、天子の御心(みこころ)を安んじ奉ろうと思うと答えた。

張南は極力なだめ、また諫めて言う。

「今や呉の陣は去年とは内容が一変しています。若い孫桓(そんかん)を後方に下げ、前線には新たに建業(けんぎょう)から大軍をひきいてきた韓当(かんとう)や周泰(しゅうたい)などの老練を配しているのです」

「先手には潘璋(はんしょう)、後ろ備えには凌統(りょうとう。淩統)がおり、呉随一の戦上手(いくさじょうず)と言われる甘寧(かんねい)が全軍をにらみ遊軍という位置にある。しかもその数10万という新鋭。そのようなところへわずか10騎を連れて何しに参られるか?」

だが黄忠は耳にもかけず、「そこもとたちは見物してござれ」と、ひとこと言い捨て行ってしまった。張南も馮習も呆(あき)れ顔に見送っていたが、見殺しにするわけにもいかず、あわてて一軍を追い慕わせる。

(03)夷陵の城外 潘璋の本営

やがて黄忠は呉の潘璋の陣中へ掛かった。わずか10騎で平然と中軍まで通ってしまったのである。変に思い番兵が味方を呼び立てたときには、すでに黄忠は潘璋と戦っていた。

井波版『三国志演義』(第83回)では、ここで潘璋の部将である「史蹟(しせき)」が黄忠に討たれていた。ただ、吉川版『三国志』は「史蹟」を登場させていない。

潘璋の外陣が前を捨てて中心に固まってきたところへ、張南の一軍が黄忠を援けにきた。さらに少し遅れ、関興と張苞も数千騎を連れて駆けつける。乱軍となり潘璋こそ討ち漏らしたが、合戦としては十二分の勝ちを占め、いったん蜀軍は野を隔てた。

(04)夷陵の城外

関興と張苞は引き揚げを促すが、黄忠は動かない。関羽(かんう)の敵を討ち果たすまでは戦うのだと。

翌日も突撃の先に立ち、「潘璋、出でよ」と四角八面に暴れ回る。けれど今日は呉軍にも備えがあり、黄忠は地の利の悪い危地へと取りこめられた。

血路を開いて逃れようとすると四方から石が飛び、黒風(暴風)が巻いてくる。そして右の山から周泰、左の渓流から韓当、後ろの谷から潘璋や馬忠(ばちゅう)というふうに、呉の軍勢は霧のごとく退路をふさいでしまった。

豪気な黄忠もどうすることもできない。身には幾筋も矢を負い、馬は石に当たり倒れる。精は尽き目は霞(かす)み、「今はこれまで」と自ら首を刎(は)ねて死のうとした。

そのとき敵の馬忠が駆け下りてきたので、「死出の道連れに望むところの敵」と断末魔の勇を鼓し、幽鬼のごとく立ちふさがる。

黄忠は馬忠の突いてくる槍の柄にしがみつき離さない。そのうちに四方の呉軍が騒ぎだしたので、いよいよ馬忠は持て余し、かえって黄忠に槍を奪われ突きまくられた。

関興と張苞が山あいに黄忠が追い込まれているのをようやく知り、それを救うべく急襲してきたのである。馬忠は身の危険を悟るとにわかに相手を捨て、谷の懐へ逃げ去ってしまった。

(05)劉備の本営

黄忠が気づいたときには味方の陣中に安臥(あんが)し、関興や張苞の手で看護されていた。

この時も劉備の本営がどこにあったのかわからなかった。この第252話(01)から動いていなければ「秭帰」のままだと思われるが……。

いや、誰か後ろで自分の背をなでてくれる人があるので、苦痛をこらえて振り向くと、それは劉備だった。

「老将軍。朕が過ちを許してくれよ……」

驚いた黄忠は起き上がろうとしたが、おびただしい量の出血と老衰とに、ただ苦しげな悶(もだ)えを表情に見せるのみ。

「否とよ陛下。陛下のような高徳の御方のそばに、75歳のこの年まで久しくお仕えすることができたのは、実に人と生まれた冥加(みょうが)このうえもありません。この命、何で惜しむに足らん。ただ龍体(天子のお体)を守らせたまえ」

言い終わると、黄忠は忽然(こつぜん)と息が絶えた。陣外には白天地の夜を吹雪が吹き荒れていた。

この記述からすると、黄忠は建和(けんわ)2(148)年に生まれ、この年(蜀の章武2〈222〉年)に75歳で亡くなったことになる。ただしこれは創作で、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・黄忠伝)によると、黄忠は建安(けんあん)25(220)年に亡くなっている。なお、その生年についての記事はない。

(06)猇亭(おうてい) 劉備の本営

「かくては」と劉備は自ら心を励まし、御林軍(ぎょりんぐん。近衛軍)をひきい凍る帝旗を猇亭まで進める。

図らずもこの付近で呉の韓当軍と会戦。張苞は韓当の唯一の部下である夏恂(かじゅん)を討ち破り、関興は周泰の弟である周平(しゅうへい)の首を挙げた。一戦一進。蜀軍は屍(しかばね)の山を越え、血の流れを渡って進む。

帝座の辺りを守る白旄(はくぼう。犛牛〈からうし〉の尾を竿〈さお〉の先に飾った旗と)黄鉞(こうえつ。黄金の鉞〈まさかり〉)や黄羅(黄色い薄絹?)の傘蓋(さんがい)までことごとく凍り、水晶の珠簾(しゅれん)が揺らぎ進むようだった。

(07)退却中の甘寧

呉の水軍を統率していた甘寧は、建業を発ったときから体が本調子ではない。冬に入ると持病に悩み、味方の退勢はすこぶる憂うべきものがあったが、是非なく陸上軍の退却とともに彼も江岸を馬に乗り落ちていく。

すると途中、待ち伏せしていた蜀の南蛮(なんばん)部隊が一度に起こって猛襲してくる。甘寧の軍勢は大半が船中にあったので、このとき従えていた部下はごく少数だった。

それに、敵の沙摩柯(しゃまか)の勇猛さはまるで悪鬼か羅刹(らせつ)のようだったので、ほとんど生き残る者もないほどな大殺戮(だいさつりく)に遭ってしまう。

(08)富池口(ふちこう)

甘寧は病体のうえに沙摩柯の射た矢を肩に受け、富池口までひとり逃れる。だが、ここで最期を悟ったとみえ、馬を大樹の下に捨てると、その根元に座ったままついに落命していた。

原文「甘寧は、病床のうえに…」だが、ここは「病体」としておく。

手元にある3種類の吉川版『三国志』を見比べてみると、「新潮社版」と「講談社版(新装版)」では「病床」と、古いほうの「講談社版」では「病体」と、それぞれあった。古いほうというのは1990年7月20日に第19刷が発行されたもので、1981年2月15日に第1刷が発行されたとあるもの。

井波版『三国志演義』(第83回)では、沙摩柯の矢は甘寧の頭のてっぺんに命中したことになっていた。

甘寧の最期については『三国志』(呉書〈ごしょ〉・甘寧伝)に詳しい記事がなく、ここで語られていたことも創作だと思われる。

(09)猇亭 劉備の本営

(蜀の章武2〈222〉年の)2月に入ったが、猇亭方面では激戦が繰り返されていた。蜀軍には必勝の信念がつき、呉軍には戦えば必ず負けるという臆心がこびりついている。

ところがその日の戦に、全軍が凱歌を上げ引き揚げてきたのに、夜になっても関興だけ帰ってこない。劉備は張苞や諸将にも手分けして捜すよう言いつけ、深夜まで眠りに就かなかった。

管理人「かぶらがわ」より

凍てつく寒さの中、さらに進撃を続ける劉備。蜀の黄忠と呉の甘寧の最期については賛否が分かれるところだと思いますが、個人的にはアリの創作だと感じました。

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