吉川『三国志』の考察 第108話「五関突破(ごかんとっぱ)」

曹操(そうそう)の承諾を得たうえで許都(きょと)を離れた関羽(かんう)だったが、行く先々で曹操配下の部将に阻まれてしまう。

やむなく関羽は各地の守将を斬りながら進み、何とか船を手に入れて黄河(こうが)を渡る。

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第108話の展開とポイント

(01)東嶺関(とうれいかん)

胡華(こか)の家を発ってから、破蓋の簾車(れんしゃ)は日々秋風の旅を続けていた。やがて洛陽(らくよう)へかかる途中にひとつの関所がある。曹操配下の孔秀(こうしゅう)が500余騎をもって関門を固めていた。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「東嶺関は関所の名。司隷州(しれいしゅう)河南尹(かなんいん)に属す。なお、この地名は後漢(ごかん)・三国時代にはなかった」という。

関羽は劉備(りゅうび)の二夫人が乗る車を留め、ただ一騎で先に駆け出し、関門の通過を願い出る。しかし孔秀は、曹操の告文を持っていないことを理由に拒む。押し問答の末、関羽は孔秀を両断して通り抜けた。

(02)洛陽

数日後、洛陽の城門が遠くに見えてくる。もちろんここも曹操の勢力圏内であり、配下の諸侯のひとりである韓福(かんふく)が守っていた。

ここで韓福が諸侯のひとりだとあったが、彼は正史『三国志』には見えない人物。

市外の関門は昨夜(ゆうべ)から物々しく固められている。関羽が孔秀を斬って東嶺関を破ったことは伝わっており、常備兵に屈強な1千騎を加え、付近の高地や低地にも伏兵を潜ませていた。

関羽が開門を呼びかけると、洛陽太守(らくようたいしゅ)の韓福は自ら馬を進め、告文を見せるよう迫る。

ここで関羽が漢(かん)の寿亭侯(じゅていこう)を称していた。だが先の第106話(06)では、寿亭侯の印も許都の屋敷に置いてきたとある。封侯の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を残して辞退の意を示したのに、なお爵号だけ唱えるのでは筋が通らない。ご都合主義的な展開になっている。

小ネタとしてはうまいと思うが、史実の関羽は寿亭侯ではなく漢寿亭侯(かんじゅていこう。漢寿は地名)である。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第26回)では、曹操の上表により関羽が漢寿亭侯に封ぜられ、印を贈られたとしか書かれていない。

また、韓福は洛陽太守だとあったが官名がおかしい。このときの都は洛陽ではなく許都だが、洛陽太守に相当するのは河南尹だろう。

関羽が孔秀を斬ったことを公言すると、四面に銅鑼(どら)が鳴り、山地や低地には金鼓が轟(とどろ)く。

韓福配下の猛者である孟坦(もうたん)があっさり関羽に討たれると、ひるみ立った兵士たちは関門の中へ逃げ込んだ。韓福は門の脇に馬を立て、向かってくる関羽に一矢を放つ。矢は左臂(ひだりひじ)に当たった。

関羽は韓福を目がけて駆け寄り、その首を斬り落とす。韓福配下の兵士たちは肝を冷やし、我がちに赤兎馬(せきとば)の蹄(ひづめ)から逃げ散った。

関羽は血震いしながら遠くにいる車を呼び、洛陽へ入る。一時はどこからともなく、しきりに車に向かって矢が飛んできたが、韓福と孟坦の死が伝わると全市は恐怖に満ち、行く手を遮る兵士もなかった。

(03)沂水関(ぎすいかん)

洛陽を出てから数日後、宵のころ沂水関にかかる。

『三国志演義(2)』の訳者注によると、「この(井波『三国志演義』の)訳稿の底本である縦組繁体字版の『三國演義』(人民文学出版社、1957年1月北京第二版)は沂水関に作るが、横組簡体字版の『三国演義』(人民文学出版社、1973年12月北京第三版)は汜水関(しすいかん)に作る」という。

「毛本(もうほん)や明(みん)刊本はこの(『三国志演義』)第27回で、関羽が汜水関を通って鎮国寺(ちんこくじ)に至り、普浄(ふじょう)に出会うと叙述する。一方、(『三国志演義』)第77回で『法名を普静といい、もと汜水関の鎮国寺の長老である』という」ともある。さらに「北京第三版では、物語の地理的状況から判断して汜水関に統一している。ちなみに法名は普浄とする」ともある。

ここはもと黄巾(こうきん)の賊将で、後に曹操に降参した弁喜(べんき。卞喜)という者が固めていた。山には漢の明帝(めいてい。劉荘〈りゅうそう〉)が建立した鎮国寺という古刹がある。

弁喜はこの寺に大勢の部下を集め、関羽が来たらばと何事か謀議していた。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「明帝は後漢の第2代皇帝。伝説では明帝期に白馬寺(はくばじ)に仏教が伝来したという」とある。

(04)鎮国寺

弁喜は山麓の関門をとがめずに通し、鎮国寺の山門で僧侶たちとともに関羽一行を出迎える。

長老の普浄和尚(おしょう)が簾中の二夫人に茶を献ずると、関羽はわがことのように喜び慇懃(いんぎん。丁寧)に礼を述べた。

普浄は関羽とは同郷で、蒲東(ほとう)の生まれだと話す。

『三国志演義大事典』によると「蒲東は地名で正しくは蒲州(ほしゅう)。司隷州河東郡(かとうぐん)に属し、関羽の原籍地とされる」という。また「蒲州という地名は後漢・三国時代にはなかった。この地名が行政単位として置かれたのは、実際には十六国時代の北周(ほくしゅう)の時である」ともいう。

さらに「『三国志演義』(第1回)では、関羽の原籍地は河東郡解良県(かいりょうけん。正しくは解県)となっている。そこで、ここにいう蒲東とは河東郡を指すという説もある」ともいう。

弁喜が見とがめて、早く賓客を堂中へお迎えせよと急かすと、その折に普浄は関羽へ、何か目をもって告げるらしい様子を見せた。

酒宴に臨んだ関羽だったが、この席で弁喜を両断。震い恐れた敵は十方へ逃げ散ったらしく、再び静かな松籟(まつかぜ)が返ってきた。

関羽は二夫人の車を守り、夜が明けないうちに鎮国寺を発つ。別れに臨み礼を述べると、普浄は近く他国へ雲遊するつもりだと告げる。こうして夜が明け放れるころには、すでに関羽は沂水関を越えていた。

(05)滎陽(けいよう)

滎陽太守の王植(おうしょく)は早打ちを受け取っていたものの、 城門を開いて自ら関羽一行を出迎え、すこぶる丁重に客舎へ案内する。

井波『三国志演義(2)』(第27回)では、王植と韓福は妻同士が姉妹とある。

夕刻に王植から使いが来て関羽を酒宴に誘った。しかし関羽は、二夫人のおそばを離れるわけにはいかないからと断り、士卒とともに馬に秣糧(まぐさ)を飼っていた。

王植はむしろ喜ぶと、従事(じゅうじ)の胡班(こはん)を呼んで密かに謀計を授ける。ただちに胡班は1千余騎を促し、夜も二更(午後10時前後)のころ密やかに客舎を遠巻きにした。

そして関羽らが寝静まるのを待ち、客舎の周りに投げ炬火(たいまつ)をたくさん用意し、乾いた柴(シバ)に焰硝(えんしょう。火薬)を抱き合わせ、柵門の内外へ運び集める。

後は合図を上げるばかりに備えていたが、胡班は灯火の消えない一房が気になり、忍びやかに近づき房中をうかがった。

書物を読んでいた関羽が何者だと静かにとがめると、胡班は敬礼し、「王太守の従事、胡班と申す者です」と言ってしまう。

関羽は胡班の名を聞き、書物の間から一通の書簡を取り出して示す。以前に泊めてもらった家の主の胡華(こか)から、息子の胡班あてに書かれた紹介状だった。

胡班は父の書状を読むと王植の謀計を打ち明け、一刻も早くここから落ちるよう促す。驚いた関羽は取るものも取りあえず、二夫人を車に乗せて裏門から脱出した。

その夜、王植は城門を擁し厳しく備えていたが、かえって関羽のために憤怒の一刃を浴び、非業の死を遂げる。

胡班は、関羽を追うと見せかけて城外の数十里まで追撃したが、東の空が白みかけると遠く弓を振り、それとなく別れを告げた。

(06)滑州(かっしゅう)

日を重ね、関羽一行は滑州の市城へ入る。

『三国志演義大事典』によると「滑州は後漢では兗州(えんしゅう)東郡(とうぐん)の白馬県(はくばけん)の東に属す」という。また「この地名は後漢・三国時代にはなかった。滑州が行政単位として置かれたのは実際には隋代(ずいだい)のことである」ともいう。

太守の劉延(りゅうえん)は弓槍(きゅうそう)の隊伍を連ね、関羽を街上に迎えると、この先の黄河をどうやって渡るつもりかと試問した。

関羽がもちろん船で渡りたいと言うと、劉延は、黄河の渡口は夏侯惇(かこうじゅん)の配下の秦琪(しんき)が要害を守っているから、渡ることを許さないだろうと応ずる。

そこで関羽が船を貸してほしいと頼むと、丞相(じょうしょう。曹操)の命令が届いていない以上は貸せないとの答え。関羽は一笑し、そのまま二夫人の車を押させて秦琪のもとに赴く。

(07)黄河の河港

やってきた関羽を見た秦琪は告文を見せろと言い、ないとわかると通過を拒む。

洛陽の時と同じく、ここでも関羽は漢の寿亭侯を称していた。

関羽は秦琪を討ち取り、埠頭(ふとう)の柵を破壊して繫船門(けいせんもん)を占領する。刃向かう雑兵らを追い散らしつつ一艘(いっそう)の美船を奪い、二夫人の車を移すや否や、纜(ともづな)を解いて帆を張り、満々たる水へ漂い出した。

ここで関羽が五関を突破したことを振り返っていたが、許都を発してから、襄陽(じょうよう)、覇陵橋(はりょうきょう)、東嶺関、沂水関、滑州と踏破したと言っていた。襄陽はいきなり出てきた感じだが、どう解釈すればいいのだろうか?

また、覇陵橋については前の第107話(03)で触れたが、『三国志演義大事典』によると「現在の河南省(かなんしょう)許昌市(きょしょうし)郊外の石梁河(せきりょうか)に灞陵橋(はりょうきょう)があった」という。また「城外8里にあったため『八里橋(はちりきょう)』とも呼ばれるが、現在はコンクリート製の橋になっている」とのこと。前漢(ぜんかん)の文帝(ぶんてい)の霸陵(はりょう)や霸水に架けられていた霸橋とは別の橋だった。

管理人「かぶらがわ」より

各地の守将を斬りまくり、何とか黄河を渡るところまで漕(こ)ぎ着けた関羽。この第108話で一挙に片づいたためテンポはよかったのですが、これをまとめるのは大変でした。

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  1. 森田実知夫 より:

    昭和54年11月に発行された吉川英治全集の「三国志」を呼んでいます。
    私が26歳のときのものです。
    定年退職したらもう一度読もうと思っていました。
    若いときはスラスラすらっと呼んでいてあとになって「三国志に出てきた話だ」というのがいっぱいあって驚きでした。
    そういうことで、68歳になり再度読み始めましたが今度はゆっくり読んでいます。このサイトは本当にすごくて毎日読んでいます。
    付録についていた「三国志地図」を壁に貼って位置を確認しながら読んでいます。
    「五関突破」を地図で追いましたが、私も、「襄陽」が出てきたのには驚きました。この5つの位置関係も今ひとつ地図を見てもよくわかりませんでした。当時の道路地図でもあればわかりやすいのかも。
    地名も変わってるでしょうし、難しいですね。

    これからも楽しませていただきます。
    感謝感謝です。ありがとうございます!!

    • かぶらがわ より:

      森田さん、コメントありがとうございます。

      関羽の五関突破の話もそうですが、『三国志演義』にはサラッと大掛かりなフィクションが出てきて驚かされますね。

      (このエピソードが京劇では有名な演目にもなっていて、さらに驚かされます)

      許都から河北へ行くのに襄陽や洛陽を通るとは思えないのですけど、物語が成立した時代には問題にならなかったみたい。

      それに、史実をなぞるより『三国志演義』の筋立てのほうがおもしろいことも確かなので……。

      史実・事実・フィクションを考察しながら読んでいくと、また別の楽しみ方ができるかなと感じています。

      根っこのところに『三国志』をはじめとする正史があって、民間伝承なども取り入れて後代に成立した『三国志演義』があって、それらをアレンジした現代の関連作品があるという――。

      『三国志』の物語は誰かひとりの創作物でないところに、ほかにはない魅力があると思います。

      ご承知のように、吉川『三国志』は300話を超える長編ですので、お時間のあるときに少しずつ、無理のないペースでサイトの記事にも目を通していただければ幸いです。

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