孟獲(もうかく)の求めに応じ、八納洞(はちのうどう)の木鹿王(もくろくおう)が銀坑山(ぎんこうざん)に到着する。彼のひきいる3万の軍勢には、1千頭近くの猛獣も交じっていた。
木鹿軍と激突した蜀軍(しょくぐん)は総崩れになるも、この様子を聞いた諸葛亮(しょかつりょう)は笑い、あらかじめ用意していた20余輛(りょう)の車を引いてこさせる。
第273話の展開とポイント
(01)銀坑山
隣国への使いから帰った帯来(たいらい)が告げた。
「我々の申し入れを承知し、数日の間に、木鹿王は自国の軍勢をひきいて来ましょう。木鹿軍が来れば、蜀軍などは木っ端微塵(こっぱみじん)です」
帯来の姉である祝融(しゅくゆう)も、その夫である孟獲も、今はそれだけを一縷(いちる)の希望につないでいたところである。やがて八納洞の木鹿が数万の兵を連れ、市門に着くと聞くや、孟獲と祝融は王宮の門を出て迎えた。
木鹿大王は白象に乗ってきた。象の首に金鈴を掛け、七宝の鞍(くら)を据えている。身には銀襴(ぎんらん。銀の糸を模様に織り込んだ美しい織物)の戦袈裟(いくさげさ)を着け、金珠の首環(くびわ)や黄金の足環(あしわ)、腰には瓔珞(ようらく)を垂れ、ふた振りの大剣を佩(は)いていた。
★『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第90回)では、瓔珞は纓絡とあった。『角川 新字源 改訂新版』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、西田太一郎〈にしだ・たいちろう〉、赤塚忠〈あかつか・きよし〉、阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉、釜谷武志〈かまたに・たけし〉、木津祐子〈きづ・ゆうこ〉編 KADOKAWA)によると、両者は同義語とのことで、「珠玉を編んで作った装身具。頭・首・胸などにかける」とある。
彼の連れてきた3万の軍勢の中には、1千頭に近い猛獣も交じっている。獅子(シシ)・虎・大象・黒豹(クロヒョウ)・狼(オオカミ)など、その吠ゆる声もすさまじい。
王宮の奥では深更(深夜)まで歓迎の大宴が開かれたものらしく、終夜たいへんな篝火(かがりび)と蛮楽が騒いでいた。
孟獲夫妻は善美を尽くして3日間の供宴を続け、あらゆる媚態(びたい)と条件を付し、木鹿の歓心を得るに努めた。木鹿の機嫌は斜めならず、ようやく到着して4日目に軍備を命じだす。
何としたことか、その前夜から翌朝にかけては、猛獣部隊の猛獣たちが、終夜空を望んで咆哮(ほうこう)していた。聞けば、戦に臨む前は一切餌断ちをし、猛獣群の腹を干しておくのだという。
(02)銀坑山の郊外
翌日、木鹿大王は陣頭に出る。例の白象に乗り、ふた振りの宝剣を横たえ、手には蔕(ほぞ。へた)のある鐘を持っていた。
★井波『三国志演義(6)』(第90回)では、木鹿大王が手にしていたのは蒂鐘(ていしょう。携帯用の小型の鐘)。『角川 新字源 改訂新版』によると、蔕と蒂は通用するとのこと。
蜀軍は驚き、戦わぬうちからひるみ立つ。趙雲(ちょううん)や魏延(ぎえん)らが井楼の上から眺めると、なるほど、兵たちのひるむのも無理はない。
木鹿軍の兵は顔も皮膚も真っ黒で、まるで漆塗りの悪鬼羅刹に異ならなかった。しかも大王の後ろには、つながれた猛獣の群れが尾を振り、雲を望んで吠えている。
さすがの二将も怪しみ恐れ、にわかに策も作戦も下し得ずにいるうち、たちまち木鹿大王は手の蔕鐘を打ち鳴らす。前列の槍隊(やりたい)を突っ込ませ、両軍乱れ合うと見るやさらに激しく鐘を乱打した。
機を計っていた猛獣部隊は、一度に鎖を解き、あるいは檻(おり)を開く。それとともに木鹿大王は口の内に呪を念じ、何か祈るような格好をしだす。
獅子・虎・豹・毒蛇・悪蝎などの群れがとたんに土煙を巻き、草を這(は)い、あるいは宙を飛ぶように蜀軍に襲いかかった。
彼らの腹はみな背中へつくほど細く巻き上がっており、いわゆる餓虎や餓狼(がろう)ばかりである。牙を張り、風を舞わし、血に飽かない姿だった。
逃げる逃げる、逃げ崩れる。蜀兵の足はいかに叱咤(しった)しようが止まらない。とうとう三江(さんこう)の境まで総なだれに退いてしまう。
★三江について、井波『三国志演義(6)』(第90回)によると、瀘水(ろすい)・甘南水(かんなんすい)・西城水(せいじょうすい)の3本の川が合流しているため、三江と称するという。
蛮軍はおもしろいほど勝ち抜いて、これまた猛獣以上の猛勇を振るい、逃げ遅れた蜀兵を殺し回った。
異様な妖鐘が再びジャンジャンと鳴り響くと、木鹿大王の白象の周りに、満腹した猛獣群が尾を振り勇んで帰ってくる。これを檻に入れ、あるいは鎖につなぐと、鼓角を鳴らして銀坑山の王宮へ引き揚げていった。
(03)諸葛亮の本営
趙雲と魏延からこの日の敗戦を聞くと、諸葛亮は笑って言う。
「やはり書物は噓を書いていないものだ。むかし若年のころ、私が草廬(そうろ)の内で読んだ兵書に、南蛮国(なんばんこく)に豺狼(さいろう)虎豹(こひょう)を駆使する陣法ありと見えたが、今日のはすなわちそれであろう。幸い蜀を発つときから、万一のために備えをしてきておる。決して驚き騒ぐにはあたらない」
諸葛亮は一隊の兵に命じ、例の車輛(しゃりょう)を引いてこさせた。一輛ごとに被布(おおい)をかけ、軍中深く秘されてきた20余輛の車である。被布を取らせると、どの車にも一軒の小屋ほどもある箱が載っていた。
そして、取り除かれた被布の下から大きな櫃(ひつ)が見えた。10余輛には黒塗りの櫃が、あとの10余輛には赤く塗られた櫃が載せてある。諸葛亮は鍵を取り出し、自ら赤い櫃だけを解体した。
驚くべき巨大な木彫の怪獣が、車を脚として立ち並ぶ。獅子のごとき木獣、虎のごとき木獣、角のある犀(サイ)の木獣など、どれもこれも恐ろしく大きくて魁偉(かいい)である。
(04)三江城の郊外
翌日、蜀陣は洞口の道にあたり、重厚なる五段の備えを立てた。
孟獲は前日の勝ちに驕(おご)り、気負いきっている。木鹿大王とともに陣頭に現れ、指さして教えた。
「あれ、あれに見ゆる四輪車の上なる者が、蜀の孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)という曲者です。大王、願わくは昨日のごとく、快き大勝を示したまえ」
木鹿大王は大きくうなずき、例のごとく蔕鐘を打ち鳴らして黒風(暴風)を呼び、後ろの猛獣群をけしかける。諸葛亮の四輪車はたちまち梶(かじ)を巡らせ、二段の陣へ隠れかけた。
大象に鞭(むち)をくれ、駆け寄った木鹿大王は、高い鞍の上から宝刀を振りかざして斬り下ろす。刃は四輪車の一柱を倒した。
さらに一閃(いっせん)、また一閃。呪を念じながら斬りつけたが、三度とも切っ先は届かない。かえって後ろへ回ったふたりの徒歩(かち)の槍手(そうしゅ)に、大象の腹を突き立てられた。だが、槍は象の腹に通らない。一槍は折れ、一槍は逸れた。
諸葛亮は羽扇を上げ、「関索(かんさく)、なぜ人を突かぬ!」と叫びながら、「木鹿王、死せりっ!」と叱咤した。
木鹿大王が四度目の太刀を振りかざしたとき、一箭(いっせん。一本の矢)がうなって喉に立つ。それと同時に、下から突き上げた関索の槍も顎を突き抜く。
木鹿大王は地響きして落ちた。諸葛亮の四輪車を押していた徒歩武者は、関索以下、蜀の錚々(そうそう)たる旗本だったのである。木鹿大王は自ら好んで、蜀軍中の一番強いところへ当たり、落命したものだった。
なお全面的に観れば、前日の百獣突貫も、この日はまったく用をなさなかった。なぜなら蜀陣にも、木獣の備えがあったからである。
この木製の大怪物は、脚に車を穿(は)き、口から火煙を噴き、異様な咆哮すら発して前進し、横へ回り、縦横無碍(むげ)に駆け回った。生ける虎・豹・狼などをも、その魁偉な姿に驚殺を喫せしめたのである。
種を明かせば、木獣の中には10人の兵が入っていた。火煙を吐くのも、咆哮するのも、また進退するのも、内部に仕掛けてある硝薬と機械の動き。もちろん前代未聞の新兵器で、諸葛亮の考案によるものである。
蛮人も驚いたが、本物の虎や獅子もギョッとした。生ける猛獣隊は俄然(がぜん)、尾を垂れて壊乱してしまう。
蜀の鼓角は天地を揺り動かし、逃げ崩れる蛮軍を追い、銀坑山の王宮を占領。孟獲や妻の祝融、帯来、そのほか一族などもみな、家宅を捨てて逃げ出す途中を待ち、蜀軍は一網打尽にこれを捕らえた。
★ここで孟獲六擒(ろっきん)。
★なお井波『三国志演義(6)』(第90回)では、このとき孟獲が帯来を使い、偽装降伏を試みて失敗している。だが、吉川『三国志』では採り上げていない。
けれど諸葛亮は孟獲以下、一家眷族(けんぞく)をすべて解き、またも放してやった。
「巣なき鳥、家なき人間がどう生きていくか。いわんや、王風に背いたところでどれほどの力があろう。振る舞える限り振る舞うてみよ」
★ここで孟獲六放。
今は大言や毒舌を吐く気力もなく、孟獲は鼠(ネズミ)のごとく頭を抱えて逃げ失せた。それを王と仰ぎ、家長と慕う眷族たちの意気地なさは言うまでもない。
管理人「かぶらがわ」より
これで孟獲、六擒六放。本拠地の銀坑山も占領されては、いよいよ進退窮まりましたね。
ただ、歩く木獣の備えは都合がよすぎる感じ。だって孔明先生、呂凱(りょがい)の南方指掌図(なんぽうししょうず)に頼りっぱなしだったのでは?
★南方指掌図について、井波『三国志演義(6)』(第87回)では「平蛮指掌図(へいばんししょうず)」と呼ばれていた。
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