吉川版『三国志』の考察 第209話 「遼来々(りょうらいらい)」

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魏(ぎ)の皖城(かんじょう)を攻略した孫権(そんけん)は、余勢を駆って合淝(がっぴ。合肥)へ迫る。曹操(そうそう)はこの要地を張遼(ちょうりょう)に任せ、さらに副将として楽進(がくしん)と李典(りてん)を付けていた。

勝ちに驕(おご)り前進を続ける孫権だったが、逍遥津(しょうようしん)で敵の奇襲に遭い危うく討ち死にしそうになる。凌統(りょうとう。淩統)の働きで命拾いしたものの、一連の戦いで張遼の勇名は広く知れ渡ることになった。

第209話の展開とポイント

(01)合淝(がっぴ。合肥)

合淝城を預かって以来、張遼(ちょうりょう)は城の守りを夢寐(むび)にも怠った例(ため)しはない。ここは魏(ぎ)の境、国防の第一線と、身の重責を感じていたからである。

ところが、呉軍(ごぐん)10万の圧力の下に、前衛の皖城(かんじょう)はひと支えもなく潰(つい)えてしまった。洪水のような快速をもって、はや敵はこの合淝へ迫ると、急を告げる早馬は櫛(くし)の歯を挽くようだった。

また漢中(かんちゅう)に出征中の曹操(そうそう)からも、変を聞き「薛悌(せつてい)」という者を急派してくる。薛悌は、曹操の作戦指導を箱に封じもたらしてきたのだった。

副将の楽進(がくしん)と李典(りてん)が見守る中、張遼は箱を開ける。曹操は、敵が近づいたら序戦で一撃して鋭気をくじき、味方の心をまず安泰に固めた後、城を閉じて防備第一とし、絶対に出て戦うなと指示していた。

井波版『三国志演義』(第67回)では、曹操の命令書には、「孫権が来たら、張(張遼)・李(李典)の二将軍(にしょうぐん)は出て戦い、楽将軍(楽進)は城を守れ」とあった。

日ごろ張遼と仲の悪い李典は黙り込む。一方の楽進は反対して言った。

「由来、守る戦(いくさ)で勝てた戦はない。ましてこのような小勢で」

だが、張遼には議論する気はなく、漢中からの指示どおりにすると言って馬を呼び、はや戦場へ馳(は)せ向かおうとした。

「そうだ。これは国家の大事。あに私の心に捕らわれんや」と、李典も城門から駆け出していくと、楽進も続いて馬を出した。

(02)逍遥津(しょうようしん)

呉の大軍はすでに逍遥津まで来ていた。先鋒の甘寧(かんねい)と楽進との間に小戦闘が行われたが、魏兵はたちまち壊走。孫権は、いよいよ勝ち驕(おご)って前進を続ける。

ところが逍遥津を離れかけたころ、突然、蘆荻(ろてき)の間から連珠砲(?)を轟(とどろ)かせ、右からは李典、左からは張遼が現れた。

ふた手が渦巻いて孫権の中軍へ不意討ちをかけてくる。先手の呂蒙(りょもう)や甘寧の軍勢はあまりに敵を急追し、その快速に任せたまま中軍と隔たりすぎていた。後陣の凌統(りょうとう。淩統)は逍遥津の一水を渡河しきっていないらしい。

だが凌統は、遥かに中軍の旗が乱れ立ったのを見、部下を置き捨て単騎で駆けつけてきた。見れば孫権以下、中軍の旗本700ばかりは敵の奇襲に包囲され、まったくせん滅寸前の危機にある。

凌統は乱軍の中の孫権に向かって叫ぶと、ふたりして「小師橋(しょうしきょう)」まで駆けていく。

(03)小師橋

しかし、すでに橋の南の一丈(いちじょう)ばかりは敵の手で破壊されていた。後ろからは張遼の兵3千ほどが、ふたりを見つけ雨のごとく矢を射てくる。

凌統は、孫権に自分の後から続くよう言うと、水際から遠くへ馬を返し、改めて勢いよく駆け出す。そして、破壊された橋の水際に近づくやいな、鞭(むち)も折れよと馬の尻(しり)を打った。

井波版『三国志演義』(第67回)では、ここで孫権に橋の越え方を助言していたのは「谷利(こくり)」。だが、吉川版『三国志』では「谷利」を使っていない。

馬は高く跳び上がり水面を越え、後方の橋の端に立つ。孫権もその技に倣い、難なくそこを跳び越した。

河には後陣の徐盛(じょせい)や董襲(とうしゅう)の船が見える。凌統は孫権の守りを託すと再び橋を跳び越え、敵の矢風へ向かってまっしぐらに駆けていった。

(04)逍遥津

遠く先へ出過ぎた甘寧と呂蒙もにわかに後へ戻り、魏軍と接戦していたが、なにぶん虚を突かれたため、その備えは中軍や後陣と一致しない。各所で魏軍に包囲されたり、寸断されたりして、おびただしい数の戦死者を出す。

わけて惨たる壊滅を受けたのは凌統の部隊だった。孫権の急場を救うためにまったく隊形を失い、主将を見失っている間に李典の包囲下に圧縮されたのだ。彼らはほとんどひとりの生存者もなかったほど、ひどい屍山(しざん)を築いてしまう。

凌統も二度目に引き返してきたときには、すでに部下の大半が討たれていたので、その苦戦ぶりは言語に絶する。

ついに全身に数か所の槍傷を負い、満身朱(あけ)にまみれ、よろよろと小師橋の近くまで逃れてきた。もう彼には馬に鞭を加え、そこをひと跳びに越すような気力など到底なかったし、流れ入る血潮に目も霞(かす)み、河も水も見えないような姿だった。

(05)小師橋

河中の舟から孫権が凌統を見つける。ようやく一舟が岸へ寄り、彼の身を拾ってきた。

そのほかの敗残の味方も次々に河の北へと収容される。敵に追われて舟を待つ暇(いとま)もなく無残に討たれる者や、河へ飛び込み溺(おぼ)れ去っていく者を見ても、どうにもならないような状態だった。

(06)敗走中の孫権

「不覚、不覚。何たるまずい戦をしたものか」

孫権は敗軍をまとめ、その損傷の莫大(ばくだい)なのに肝をすくめながら、無念そうに繰り返してばかりいた。

重傷の凌統は、皖城の勝ち軍(いくさ)がすでに今日の敗因を醸していたものだと言う。部下の端までがあまりに勝ちに驕り、敵を見くびりすぎた結果だろうと。

さらに、御身(あなた)が呉の万民の主たることを、くれぐれもお心にご銘記あるようお願いしますとも言われると、孫権は「慙愧(ざんき)に堪えない。一生の戒めとする」と応じた。

大事はここに一頓挫(いちとんざ)を来した。呉軍は新手を加えて再装備を整える必要に迫られ、ついに大江を下り濡須(じゅしゅ)まで引き返す。

「遼来々(りょうらいらい。張遼が来るよ)。遼来々」

呉の国では幼い子どもまでが魏の張遼の名を覚え、子が泣くと、母はそう言って泣く子をすかした。

(07)合淝

張遼は漢中へ急使を送り、ひとまず戦況を報告したうえ、なお他日のために大軍の増派を要請した。

「このまま蜀へ進まんか? ひとたび帰って呉を討つがよいか?」

曹操も、この二大方向の去就に迷っていたところだった。

管理人「かぶらがわ」より

皖城を陥した勢いで合淝も狙った孫権でしたが、張遼らに大敗を喫してしまいました。これで曹操の迷いは悲観的なものではなくなりましたね。

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