吉川『三国志』の考察 第073話「奇計(きけい)」

呂布(りょふ)は曹操(そうそう)と通じていた陳登(ちんとう)の計略にはまり、蕭関(しょうかん。蕭県〈しょうけん〉)の関外で大規模な同士討ちを演じてしまう。

こうして蕭関で大敗を喫したうえ、徐州(じょしゅう)や小沛(しょうはい)も立て続けに失い、ついに下邳(かひ)へと追い込まれた。

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第073話の展開とポイント

(01)行軍中の呂布

陳登は蕭関(蕭県)を後にし、夜明けごろに呂布の陣へ戻ってきた。

さっそく呂布は蕭関の様子をただすが、陳登は、孫観(そんかん)や呉敦(ごとん)ら山野の賊頭に加え、陳宮(ちんきゅう)までも裏切りを謀っている様子だと答える。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第19回)では、陳登は呂布に、孫観らがそろって曹操に関を献上しようとしていると告げ、陳宮を残し守備させてきたと伝えていた。

呂布は陳登に一策を授け、再び蕭関へ差し向けた。伝令と偽って陳宮に会い、何事でもいいからすぐに評議をし、なるべく酒に酔わせておくように、そして蕭関の城楼から火の手を上げ、乾(いぬい。西北)の門を開けておくようにと。

こうして呂布軍は日没ごろから徐々に移動し始め、全軍で蕭関へ向かった。

(02)蕭関

先に引き返した陳登は宵闇のとっぷり迫ったころ蕭関に着き、馬を下りるやあわただしく一大事を告げる。曹操の大軍が急に方向を変え、泰山(たいざん)の険や谷間を渡り、一斉に徐州へ攻め入ったというのだ。

陳登は陳宮に、速やかに手勢をひきいて徐州を助けに向かえ、との呂布の命を伝えると、すぐさま馬に飛び乗り闇の中へ駆け去る。

それから半時も経たないうちに、蕭関の守兵は続々と徐州へ向かった。するとがら空きになった蕭関の望楼台に、馬を飛ばして駆け去ったはずの陳登が姿を現す。

陳登は密書を結んだ矢をつがえ、搦(から)め手(城の裏門)の山中へ射込む。真っ暗な山懐から、やがて松明(たいまつ)の合図が見えた。

しばらくして、おびただしい人馬が乾と巽(たつみ。東南)の両門から関に入ってくる。その後、また蕭関は墓場のような静寂に包まれた。

これを見届けた陳登が烽火(のろし)を打ち上げる。関外10里のところで合図を待っていた呂布は一斉に蕭関へ駆け出した。

ところが全軍で道を急いでいると、同じような速度で蕭関から出てきた軍勢がある。何も知らずに徐州の救援に急行する陳宮だった。

そのまま両軍は大衝突を起こし、かつてないような酸鼻な同士討ちを演じてしまう。ようやく気づいたときには双方とも多数の死傷者を出しており、互いに呆然(ぼうぜん)とするばかりだった。

呂布は怪しみながらも陳宮の軍勢を併せ、ともに蕭関へ近づいたが、関から不意に曹操軍が飛び出してくる。

今度は陳登が引き入れた本物の曹操軍で、呂布と陳宮の兵は壊乱混走を重ね、またしても徹底的な打撃を受けた。

(03)徐州

夜が明けてから陳宮と合流した呂布は、残り少ない味方を集めて徐州へ急ぐ。だが城門を駆け入ろうとすると、櫓(やぐら)の上から雨のような矢が降ってきた。

仰天して城楼を見ると、壁上に現れた糜竺(びじく。麋竺)が大声で罵る。ここで呂布は陳珪(ちんけい)に裏切られたことを初めて知った。

やむなく陳宮と小沛へ向かう。そこへ彼方(かなた)から、張遼(ちょうりょう)と高順(こうじゅん)が小沛の兵を残らずひきいて駆けつけてくる。

小沛を守っていたふたりも陳登から、呂布が曹操の計にかかり重囲に陥ったと聞かされ、急いで徐州へ来たのだという。

陳宮はもう笑う元気も怒る勇気もなくなったようで、ほろ苦い唇をゆがめて嘆き、横を向いた。

(04)小沛

呂布は陳宮の制止を聞かず、猛然と先に立ち小沛の城壁の下までやってくる。高櫓の陳登と城壁の下の呂布が罵り合っていたところ、後方の高順の陣が北から猛襲を受けた。

これは恐ろしく薄汚い混成軍に見えたが勢いはすさまじい。関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)の手勢だった。

高順は味方を叱咤(しった)し張飛の前に立ちふさがったが、たちまち馬の尻に鞭(むち)打って、壊走する味方の中に没し去る。

呂布は関羽と張飛に追いかけられるも、赤兎馬(せきとば)の駿足(しゅんそく)に一命を救われた。徐州を奪われたうえ小沛にも入れず、下邳へ落ちていく。

戦は曹操の大勝に帰し、劉備は彼に言われて徐州へ戻り、以前のように徐州太守(じょしゅうたいしゅ)の座に直った。

(05)徐州

劉備は糜竺や陳珪に守られていた妻子と再会。久しぶりに一家君臣が一座に会す。

劉備が小沛離散後のことを尋ねると、関羽は海州(かいしゅう)の片田舎に隠れていたと答えたが、張飛はボウ蕩山(ぼうとうざん。山+芒)に逃れて山賊をやっていたと答え、人々の笑いを誘った。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「海州は後漢(ごかん)では徐州東海郡(とうかいぐん)に属す。なお、この地名は後漢・三国時代にはなかった。海州県が置かれたのは実際には南北朝(なんぼくちょう)時代の東魏(とうぎ)の時である」という。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(ボウ蕩山の)実在の地名は芒碭山(ぼうとうざん)。芒山と碭山のふたつを合わせ称する」という。

数日後、中軍を会場に盛大な賀宴が開かれる。このとき曹操は自分の左の席を劉備に与え、右の席を陳珪に与えた。

さらに陳珪をねぎらい10県の禄を与えるとともに、息子の陳登を伏波将軍(ふくはしょうぐん)に任ずる。

歓語快笑の雰囲気で宴は進み、その中で呂布をどう生け捕るかという最後の作戦が、和気あいあいのうちに検討された。

曹操は程昱(ていいく)と呂虔(りょけん)の意見を聞き、呂布と袁術(えんじゅつ)が結ぶことを警戒する。

そこで山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸道は自軍をもって遮断すると言い、劉備には下邳から淮南(わいなん)への通路を警備するよう命じた。

劉備は即日兵馬を整え、徐州には糜竺と簡雍(かんよう)を留めると、自身は関羽・張飛・孫乾(そんけん)らを引き連れ、邳郡(ひぐん)から淮南への往来を断(き)りふさぐべく出発した。

ここで邳郡とあったが、下邳国(下邳郡)という意味合いとは違うのかよくわからなかった。

(06)下邳の郊外

劉備は山を伝って山間を抜け、ようやく呂布の背面に回る。

要路の地勢を考え、まず柵を結い、関所を設け、丸木小屋の見張り所を建てて望楼を組み上げるなどし、街道はおろか、峰の杣道(そまみち。樵〈きこり〉が使うような道)や谷間の細道まで、獣一匹通さぬばかりの厳重な監視を極めた。

(07)下邳

冬が近づき、呂布は城を巡る泗水(しすい)の流れに逆茂木を引かせ、十分な武具や兵糧を城内へ運び入れたうえ、早く雪が山野を埋めることを天に祈っていた。

陳宮は冷笑して諫め、曹操の配備が整っていない今、ただちに逆寄せをすれば大勝を博するだろうと勧める。しかし呂布は首を振り、聞き入れない。

こうしているうちに曹操は早くも山東の境を扼(やく)し、当然のように下邳へ押し寄せると城下を大軍で取り囲んだ。

2日余りは矢戦をしていたが、やがて曹操自身が20騎ほどを従え、何を思ったか泗水の際まで駒を進め、呂布に会いたいと呼びかける。

管理人「かぶらがわ」より

陳登の仕掛けにことごとく引っかかる呂布と配下たち。これにより呂布は徐州と小沛を失い、とうとう下邳へ追い込まれてしまいました。このあたりの呂布討伐戦では、陳珪と陳登の働きが特に目立ちますね。

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