吉川『三国志』の考察 第126話「軍師の鞭(ぐんしのむち)」

新野(しんや)で出会った単福(たんふく)を軍師に迎え、劉備軍(りゅうびぐん)の戦いぶりは一変した。

樊城(はんじょう)にあった曹仁(そうじん)は、新野攻めを命じた呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)の敗報を聞くと、李典(りてん)の反対を押し切り自ら出撃する。

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第126話の展開とポイント

(01)樊城

新野の劉備軍に敗れて樊城へ逃げ帰った残兵は、口々に敗戦の始末を訴える。しかも、呂曠と呂翔はいくら待っても帰ってこなかった。

するとしばらく経ってから、ふたりは敗軍をひきいて帰る途中、山間の狭道に待ち伏せた関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)に捕捉され、おのおの斬り捨てられたうえ、ほかの者も皆殺しになったことがわかる。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第35回)では、呂曠は趙雲(ちょううん)に、呂翔は張飛に、それぞれ討たれたとあった。

曹仁は大いに怒り、ただちに新野へ押し寄せんといきり立ったが、李典は断じて反対を唱えた。

李典は、劉備を軽々しく見るのは間違いだとして、どうしても進撃されるなら自分は城に残り、留守を固めていると言う。

しかしこれを聞いた曹仁が、「さては二心を抱いたな」と言いだしたので、やむなく李典も出撃する。総勢2万5千。先の呂曠と呂翔の勢より5倍する兵力をもって樊城を発した。

まずは白河(はくが)に兵船をそろえ、おびただしい糧食や軍馬を積み込む。1千の櫓(ろ)は一斉に河流を切りながら、堂々と新野へ向かって下江していく。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「白河は河川の名。漢水(かんすい)の支流。後漢(ごかん)・三国時代には淯水(いくすい)と呼ばれていた」という。

(02)新野

戦勝の祝杯を挙げる暇(いとま)もなく、危急を告げる早馬は頻々と着いた。だが軍師の単福は、あわてるには及ばないと言う。

曹仁自身が2万5千余騎をひきいて寄せてきたなら、必定、樊城はがら空きだとし、白河を隔てた地勢に不利はあろうとも、それを取るのは手の内にあると。

単福が何やら劉備にささやくと、その眉は明るくなった。

「その眉は明るくなった」というのがイマイチつかめなかった。劉備が明るい表情を見せたという意味だと思うが、あまり見ない用法。

新野から10里の地点まで曹仁と李典の兵が押してくる。ここで単福は味方を進め、城を出て対陣した。

(03)新野の城外

両軍の先鋒たる李典と趙雲との間に戦いの口火は切られる。たちまち双方とも数百の死傷者を出し、まず互角とみられた。

そのうち趙雲が敵中深くへ入り李典を見つけ、これを追って散々に駆け立てたため、李典の陣形は壊乱を来し、曹仁の中軍までなだれ込んでしまう。

曹仁は赫怒(かくど。怒るさま)し、李典の首を刎(は)ねて陣門に掛けると罵ったが、諸人になだめられてようやく許した。

翌日、曹仁は根本的に陣形を改める。自身は中軍にあって旗列を八荒(はっこう)に布(し)き、李典の軍勢を後方に置いた。

八荒は本来、八方の果てという意味だと思うが、ここではどう解釈すべきなのかわからなかった。どうやら陣形のひとつのようだが……。

この日、単福は劉備を丘の上に導き、曹仁が布いた八門金鎖の陣について解説。そして、曹仁の中軍には重鎮の気がないと指摘し、陣の破り方をも説いてみせる。

ここで劉備から八門について尋ねられた単福が、休(きゅう)・生(せい)・傷(しょう)・杜(と)・景(けい)・死(し)・驚(きょう)・開(かい)の八部を言い、生・景・開の三門から入るときは吉だが、傷・休・驚の三門から知らずに入ると必ず傷害を被り、杜・死の二門を侵すときは必ず滅亡すると言われている、と答えていた。

劉備は趙雲に500騎を授け、東南(たつみ)の一角から突撃して西へ西へと敵を駆け散らし、また東南へ返すよう命ずる。

趙雲は生門から敵陣の真っただ中を突破し、曹仁の備えはたちまち混乱を来す。曹仁自身も陣地を移すようなあわて方だったが、趙雲はそのそばをすれすれに駆け抜け、あえて追わなかった。

西の景門まで驀走(ばくそう。激しい勢いで走ること)を続けると、すぐに東南の方向へ逆突破を敢行。曹仁軍が総崩れとなり陣形も何も失ったとき、単福は劉備に総掛かりの令を促す。

待ち構えていた劉備軍は小勢ながら機をつかむ。善戦して敵の大兵を屠(ほふ)り、存分に勝ち戦の快を満喫した。

曹仁は莫大(ばくだい)な損傷を受けたが、なお痩せ意地を張り、今夜は夜討ちをかけ、たびたびの恥辱をそそいでみせると豪語をやめない。

李典は、敵がそのような常套(じょうとう)手段に乗るはずがないと忠言したが、いよいよ曹仁は意地になり、彼を痛烈に皮肉った。李典は、敵が背後へ回って樊城を突かないか心配だ、とだけ言い、後は何も言わない。

その晩、曹仁は夜襲を決行。しかし李典の予察にたがわず、敵には備えがあった。敵陣深くに討ち入ったかと思うと帰路を断たれ、四面は炎の墻(かき)になっていた。自ら進んで火殺の罠に陥ちたのである。

散々に討ち破られた曹仁が北河(ほくが)の岸まで逃げてくると、張飛の伏兵が起こる。曹仁は立ち往生して死にかけたが、李典に救われ辛くも向こう岸に這(は)い上がった。

(04)樊城

こうして曹仁らが樊城まで一散に逃げてくると城門が開き、関羽の500余騎が駆け出す。仰天した曹仁は疲れた馬に鞭(むち)打ち、山に隠れて川を泳ぎ、赤裸同様な姿で都(許都〈きょと〉)へ逃げ上ったという。

やがて劉備らが樊城へ入ると、県令(けんれい)の劉泌(りゅうひつ)が出迎える。劉備はまず民を安んじ、城内を巡視したあと劉泌の屋敷に立ち寄った。

劉備は酒宴の席でひとりの美少年を見かける。人品は尋常(よのつね)でなく、才華は玉のごときものがあった。彼は劉泌の甥で名を寇封(こうほう)と言い、幼少のころ父母を亡くしたため、劉泌がわが子同様に養ってきたのだという。

すると劉備が、寇封を養子にもらえないかと言いだす。劉泌、寇封ともに喜び、寇封はこの場で姓を劉に改め、以後、劉備を父として拝すことになった。

井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝)には『劉封は本来、羅侯(らこう)であった寇氏の子であり、長沙(ちょうさ)の劉氏の甥である』。『先主(せんしゅ。劉備)が荊州(けいしゅう)にやってきたとき、まだ跡継ぎがなかったので劉封を養子にした』という」とある。

また「劉備が荊州にやってきたのは建安(けんあん)6(201)年(『三国志演義』〈第31回〉)、劉禅(りゅうぜん)が生まれたのは建安12(207)年(『三国志演義』〈第34回〉)であり、正史『三国志』の記述に従えば、劉封が養子になったのは劉禅が生まれる以前のこの時期ということになる」ともある。

同じく井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「(羅〈羅国〉は)侯国の名。荊州長沙郡に属する羅県のこと」という。

関羽と張飛は密かに目を見合わせていたが、後で劉備に直言する。

「家兄(このかみ)には実子の嫡男がおありなのに、なぜ螟蛉(メイレイ。アオムシ)を養い、強いて後日の禍いをお求めになるのですか?」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「螟蛉は虫の名。似我蜂(ジガバチ。蜂の一種)が青虫を養って自分の子とする習性から、他姓の者を養子とすることを指す。古代中国において、他姓養子は重大な違礼であった」という。

井波『三国志演義(3)』の訳者注によると、「似我蜂は青虫を捕らえて、その幼虫の餌にする習性がある。昔の人はこれを見て、似我蜂が青虫を自分の子として育てるのだと誤解した。このことから螟蛉すなわち青虫と言えば、養子を指すようになった」という。

また「この一段について、孟宗崗(もうそうこう)は次のようなコメントをつける」ともある。「(一)忙中、劉封が養子になったエピソードを挿入したのは、決して閑筆ではない」「(二)関羽自身、関平(かんぺい)を養子に迎えている(『三国志演義』〈第28回〉)のに、劉備が養子を迎えることに難色を示したのは、臣下の子どもと違って君主の子どもには跡目争いの危険があるからだ」「(三)これは後に孟達(もうたつ)が(関羽を救援しないよう)劉封を説き伏せる伏線である(『三国志演義』〈第76回〉)」

関羽が関平を養子に迎えたことについては、先の第111話(09)を参照。

それでも父子の誓約は固めてしまっていたし、劉備が劉封をかわいがることも非常なので、そのままに過ぎているうち、単福が「樊城は守るに適さない」と言ったこともあり、樊城を趙雲の手勢に預け、劉備は再び新野へ帰った。

管理人「かぶらがわ」より

呂曠と呂翔に続き、曹仁の八門金鎖の陣も鮮やかに撃破した単福。相変わらず小勢の劉備軍ではありますが、その戦い方はまったく変わってきました。

ただ、ここで劉備が寇封を養子にする必要があったのか? 阿斗(あと。劉禅)の誕生前ならともかく、これは理解に苦しむ判断でした。

と思っていたら、実は『三国志演義』には別の意図があったという――。こういう背景は訳者の先生方の注まで見ないとわからないかもしれません。正史『三国志』によれば、劉封が養子に迎えられたのは劉禅の誕生前なのですね。

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