吉川『三国志』の考察 第254話「一書生(いちしょせい)」

和睦の使者として遣わした程秉(ていへい)が追い返されたことから、孫権(そんけん)は劉備(りゅうび)の決意の固さを思い知る。

呉(ご)の重臣たちは蜀軍(しょくぐん)の勢いに恐れをなすが、このとき闞沢(かんたく)は、荊州(けいしゅう)にいる陸遜(りくそん)の起用を強く求めた。

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第254話の展開とポイント

(01)建業(けんぎょう)

呉の使者の程秉は、猇亭(おうてい)から逃げ帰るように急いで引き揚げた。

その結果、再び建業城中の大会議となり、呉の諸将はいまさらのごとく蜀の旺盛な戦意を再認識する。満堂の悽気(せいき。ひどく悲しい雰囲気)、恐愕(きょうがく。ひどく恐れ驚く様子)のわななき、覆うべくもなかった。

ここで闞沢が提唱する。

「諸員。何をか恐れるか。幸いにも呉には、国家の柱とも言うべき大才が生まれておる。なぜ各位は、かかる時にこの人を王に薦め、もって蜀を破ろうとしないのか?」

にわかに孫権が目を輝かせ、その誰なるかをただすと、闞沢は答えた。

「余人でもありません。それはいま荊州にいる陸遜です」

たちまち議場はガヤガヤしだし、中には嘲笑すら聞こえる。孫権は首をかしげ、諸人は騒然と非をささやいた。張昭(ちょうしょう)や顧雍(こよう)などの重臣連も、苦笑をたたえて、こもごも反対する。

いまだ陸遜を一儒生扱いしているのが気になる。この年(魏〈ぎ〉の黄初〈こうしょ〉3〈222〉年)には40歳になっていた。周瑜(しゅうゆ)が36歳、魯粛(ろしゅく)が46歳、呂蒙(りょもう)が42歳で、それぞれ亡くなっていることを考えても、40歳の陸遜を黄口の一儒生とか、年が若いと馬鹿にしているのは違和感が強い。

そのほかにも反対者はずいぶん多かったが、孫権は一同の反論を退けて陸遜を召した。彼に英断を下させたものは、闞沢が「もし私の言に誤りがあれば、私の首をお取りになっても構いません」とまで、責めを一身に負って推挙に努めたことによる。

もっと心を動かしていたのは、生前の呂蒙が褒めていた言葉であり、「あの呂蒙が、自分の代わりに荊州の境の守りに抜てきしたほどの者とすれば、年は若くても、何か見どころのある人物に違いあるまい」と、考えたからだった。

陸遜は急きょ建業へ帰り、孫権に謁する。

そして「この大任を受けて、汝(なんじ)よくそれに応うる自信ありや?」と問われると、こう答えて言外に自信をほのめかした。

「国家存亡の時、辞すべきではありませんから、謹んで大命を拝します」

また、陸遜はこのように言い足す。

「御口ずから大命を下したもう以上、これで十分ですが、願わくは文武の諸大将をことごとく召して、厳かな儀式を営まれ、そのうえで御命の剣を臣にお授けください」

『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第83回)では、厳粛な儀式を執り行うよう進言したのは闞沢。

孫権は承知して、建業城の北庭に、夜を日に継いで台を築かせる。でき上がると百官を列し、式部(しきぶ。儀式をつかさどる役人)や楽人(がくじん)を配して、陸遜を壇に登らせた。

そして手ずから剣を授け、白旄(はくぼう。犛牛〈からうし〉の尾を竿〈さお〉の先に飾った旗)、黄鉞(こうえつ。黄金の鉞〈まさかり〉)、印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)、兵符など、すべて任せて大権を委ねた。

「いま足下(きみ)を大都護(だいとご)・護軍(ごぐん)・鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)に任じ、婁侯(るこう)に封ずる。以後、6郡81州ならびに荊州諸路の軍馬を総領せよ」

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・陸遜伝)によると、このとき陸遜は大都督(だいととく)に任ぜられた。また井波『三国志演義(5)』(第83回)では、大都督・右護軍(ゆうごぐん)・鎮西将軍に任じ、婁侯に昇進させたとあった。

6郡81州について『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「81州は正しくは(江南〈こうなん〉)81県。江南6郡を指す。ただし、江南6郡の管轄下にある県の数は実際には92である」という。なお「江南6郡」は、揚州(ようしゅう。楊州)の九江(きゅうこう)・廬江(ろこう)・呉・会稽(かいけい)・丹陽(たんよう。丹楊)・豫章(よしょう。予章)の6郡を指すとも。

(02)猇亭 陸遜の本営

陸遜が新たに総司令官として戦場へ臨むという沙汰が聞こえると、呉の前線諸陣地にある諸将は甚だしく不満を表す。

そこへ陸遜が着任すると、荊州諸路の軍馬を集め、丁奉(ていほう)や徐盛(じょせい)らの諸将を加え、堂々と新鋭の旗幟(きし)を総司令部に植え並べた。

けれど従前から各部署にいる大将連は、昂然(こうぜん)として、みなあえて服さない色を示していた。賀を述べてくる者すらない。

それでも陸遜は少しも気にかけるふうもなく、日を計り、軍議を開くので集まるようにと通告を発する。

そして、やむなく集まった諸将を下に、一段高い将台に立って言い渡した。

「私が建業を発するとき、呉王(ごおう。孫権)は親しく宝剣と印綬を授けたまい、『閾(しきい。敷居)の内は王これをつかさどらん、閾の外のことは将軍これを制せよ。もし配下に乱す者あらば、まず斬って後に報ずべし』とまで仰せられた。私は王のご信任に感泣し、一身を顧みる暇(いとま)もなく、かくは赴任してきたわけである」

こうしてまず抱懐の一端を述べ、味方の内にある根拠なき盲説のひとつを粉砕。また、重ねてこう宣言する。

「軍中つねに法あり。王法に親なしともいう。各部隊はさらに一層、軍律を厳に守られたい。もし聞かずんば、敵を破る前に内部の賊を斬らん」

諸人は黙然としてただ仏頂面を背けていたが、不満組のひとりたる周泰(しゅうたい)が少し進んで将台の上へ呼びかけた。

「先に前線へ来て悪戦苦闘を続けておられたわが呉王の甥君たる孫桓(そんかん)は、先ごろから夷陵城(いりょうじょう。彝陵城)に取り籠められ、内に兵糧なく、外は蜀兵に遮断されておる」

「いま大都督の幸いにこれに臨まれたうえは、一日も早く妙計を巡らせ、まず孫桓を救い出し、もって呉王のお旨を安め奉り、併せて我らの士気を高揚されたい。借問す、大都督には、かかる大計をお持ちなりや?」

陸遜はほどんど問題にせず答える。

「夷陵の一城などは枝葉にすぎない。それに孫桓はよく部下を用いる人だから、必ず力を合わせてよく守るだろう。急に救わなくても落城する気遣いはない」

「むしろ私が破ろうとするのは蜀軍の中核にある。敵の中核が崩れれば、夷陵のごときはひとりでに囲みが解けてしまうのである」

聞くと諸将はみな、ドッとあざ笑い、侮蔑のささやきを交わしながら退散した。韓当(かんとう)や周泰などは、「かかる大都督を上に頂いていては滅ぶしかない」と、面色を変えたほどである。

すると翌日、大都督の名をもって、各部署に軍令が下った。

「攻め口を堅く守り、あえて進まんとするなかれ。ひとり出でて戦うもこれを禁ず」

諸将は大都督部へ難詰に押しかけ、韓当や周泰などを先にし、おのおの口を極めて反対。陸遜は剣に手を掛けて叱咤(しった)した。

「私は一介の書生にすぎぬが、呉王に代わって諸君に令を下すものである。これ以上異論を差し挟むにおいては、何者たるを問わず、斬って軍律を明らかにするぞ!」

諸将は黙り、恐れを抱き、みな帰ってしまう。しかし誰ひとり服しはしない。むしろ来たときよりも、憤懣(ふんまん)を内に含み、口汚く嘲笑を交わしていた。

(03)猇亭 劉備の本営

呉軍がこうしている間に、いよいよ士気の高い蜀の大軍は、猇亭から川口(せんこう)に至る広大な地域に、40余か所の陣屋と壕塁(ごうるい)を築く。昼は旌旗(せいき)雲とまがい、夜は篝火(かがりび)に天を焦がしていた。

敵の組織に改革が行われたと伝わった日、劉備はすぐ左右に問う。

「呉軍の総司令は、陸遜とかいう者に代わったそうだが、聞いたことのない人物である。誰か知っておらぬか?」

答えたのは馬良(ばりょう)である。

「敵は思い切った人物を登用したものです。陸遜は江東(こうとう)の一書生でまだ若年ですが、呂蒙すら先生と敬い、決して書生扱いにはしなかったと聞いております。深才遠計、ちょっと底が知れない男です」

さらに馬良は、呂蒙が早くから陸遜を用いていたことも話し、呉軍が荊州を襲ったのも、関羽を一敗地に倒したのも、呂蒙の奇略と言われているが、実はすべて陸遜の知囊(ちのう)から出たものだったと明かした。

これを聞いた劉備は、「では陸遜こそ、わが義弟を討った仇(あだ)ではないか」と言い、すぐに兵を進めようとする。

馬良は熟慮を仰いだが、劉備は聞こうとせず、諸将に令して陣を押し進めた。

(04)猇亭 陸遜の本営

とかく一致を欠いていた呉の陣営も、蜀の猛陣を間近に見ては、もう私議私憤を取り交わしてはいられない。俄然(がぜん)、団結して総司令部の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)に固まり、いかに迎え撃つべきかの指令を陸遜の眉に求めた。

「現状固守、みだりに動くなかれ。それだけだ」

陸遜はそう言うと、山上の韓当の持ち場に鋭気がありすぎると、自ら馬を飛ばして駆けつける。

(05)猇亭 韓当の軍営

陸遜は、今しも兵馬をそろえて、敵前へ駆け下ろうとしている韓当を押しとどめた。劉備の罠だと言い、今後の見通しも語って聞かせる。

「幸いなるかな、時はいま大夏のこの炎天。われ出でず戦わず、ひたすら陣を守って日を移しておるならば、彼は広野の烈日に日々気力を費やし、水に渇し、ついには陣を退いて山林の陰へ移るであろう。その時に至れば、私は必ず号令一下、諸将の奮迅を促すであろう」

「将軍、これも呉国のためだ。乞う、涼風を懐中に入れ、敵の盲動と挑戦を、ただ笑って見物していたまえ」

どこの部署も動かないので、やむなく韓当も拳を握り、陸遜の命のままにジッとしていた。蜀軍は散々に悪口嘲弄(ちょうろう)を放ち、しきりに呉軍の怒りを誘う。

管理人「かぶらがわ」より

自己を謙遜しての自称「書生」はいいとしても、40歳の大将をつかまえて若年呼ばわりはないだろう、と思われた第254話。

それに陸遜は、父の従兄弟にあたる陸績(りくせき)から、名門陸家の取りまとめを託されたほどの人物。しかも妻は孫策(そんさく)の娘でした。ここまで無名を強調されると、かえって噓くさく見えてしまいます。

蜀にしろ、熟練の間者なら、陸遜が油断のならない人物であることくらいは探り得るのでは? どうも陸遜は、史実より若く設定されているようですけど、無理に年齢だけを変えた感じで、ほかの話とのバランスを欠いている印象を受けました。

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