吉川『三国志』の考察 第284話「洛陽に生色還る(らくようにせいしょくかえる)」

曹叡(そうえい)の詔(みことのり)を宛城(えんじょう)で拝受した司馬懿(しばい)。すぐさま兵を集めると、洛陽(らくよう)ではなく、謀反の兆しを見せていた孟達(もうたつ)がいる新城(しんじょう)へ急ぐ。

孟達は、司馬懿が洛陽に向かっているとの偽情報を信じて備えを怠り、突然現れた魏軍(ぎぐん)になすすべなく討たれた。この知らせに洛陽は沸き返る。

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第284話の展開とポイント

(01)行軍中の司馬懿

このときの司馬懿の行軍は、2日の道のりを1日で進んでいったというから、何にしても非常に迅速なものだったに違いない。

しかも彼はこれに先立ち、参軍(さんぐん)の梁畿(りょうき)という者に命じ、あまたの第五部隊を用いて新城付近に潜行させ、このように言い触らさせた。

「司馬懿の軍勢は洛陽へ上り、天子(てんし。曹叡)の勅を受けた後、諸葛亮(しょかつりょう)を討ち破ることになっている。功を成し名を遂げんとする者は、募りに応じて司馬懿軍に付け」

もちろんこれは新城の孟達を油断させる謀略で、司馬懿の大軍は、その先触れの後から一路新城へと急いでいる。

その途中、魏の右将軍(ゆうしょうぐん)の徐晃(じょこう)が、国元から長安(ちょうあん)へ向かうのとぶつかった。徐晃は会見を求めて尋ねる。

「いますでに、天子におかせられては長安へ進発あらせたまい、曹真(そうしん)を督して諸葛亮を破らんとしておられる」

「なのに道々の風聞によれば、都督(ととく。司馬懿)は洛陽へ上られるともっぱら沙汰いたしておる。なぜ天子もおわさぬ都へわざわざお上りなさるのか?」

司馬懿は、徐晃の耳に口を寄せて言った。

「沙汰は沙汰。それがしの急ぐ先は、ほかでもない孟達の新城である」

徐晃は膝を叩き、この軍勢に合流。司馬懿は彼に先鋒の一翼を任せた。そこへ第五部隊の参軍の梁畿から、諸葛亮が孟達に送ったという書簡を盗み写したものが届く。

司馬懿は、諸葛亮が玄機(奥深い道理)を悟っていることを知り、愕然(がくぜん)とする。さらに行軍を励まし、ほとんど昼夜も分かたず新城へ急ぎに急いだ。

(02)新城

こういう情勢にありながら、少しも悟らずにいたのは新城の孟達。

上庸太守(じょうようたいしゅ)の申耽(しんたん)や金城太守(きんじょうたいしゅ)の申儀(しんぎ)などに大事を打ち明け、「不日、諸葛亮と合流せん」との密盟を結んだことに安心していた。

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉封伝〈りゅうほうでん〉)によると、申耽は(蜀から)魏に降伏した後、懐集将軍(かいしゅうしょうぐん)に任ぜられ、南陽(なんよう)に移住していた。なので、このあたり(『三国志演義』〈第94回〉でも同様)で上庸太守の申耽を使っているのは創作ということになる。なお、金城太守の申儀についても前の第283話(05)を参照。

だが、実は申耽も申儀も肚(はら)を合わせ、魏軍が城下へ来たら突如として内応し、孟達にひと泡吹かせてくれん、としているものとは夢にも気づかずにいたのである。

孟達のもとには、司馬懿が洛陽へは出ずに長安へ向かうようだとか、途中で徐晃と会って曹叡が都にいないと知り、翌日から道を変えて、長安へ進んでいるようだ、などという知らせが届いていた。

孟達は聞くごとに喜び、こう言った。

「万端こちらの思うつぼだ。いでや日を期し、洛陽へ攻め入らん」

この旨を上庸の申耽と金城の申儀へ早馬で言い送り、何月何日、軍議を定め、即日大事の一挙に赴かんと、つぶさに示し合わせた。

ところがまだその日の来ないうち、暁闇を破り、城下の一方から盛んなる金鼓の響きが寝覚めを驚かせる。

仰天した孟達が、物の具をまとって櫓(やぐら)へ駆け登ると、暁風も鮮やかに、魏の右将軍たる徐晃の旗が壕(ほり)近くに見えた。

孟達は弓を執り、旗の下に見える大将へ一矢を射る。何たる武運のつたなさ。徐晃はこの朝、攻めに先立って真額を射抜かれ、落馬してしまった。

史実の徐晃は、魏の太和(たいわ)元(227)年に亡くなっている。そのため(魏の太和2〈228〉年の)新城攻めには参加していない。

初戦の第一歩に大将を失った徐晃軍は、急襲してきた勢いを一度にひるませ、先鋒の全兵は浮き足立つ。いささか勇気を持ち直した孟達は、城門を開いて突出し、魏兵を追い崩す。

しかし追えば追うほど、敵兵の密度は増し、濛々(もうもう)の戦塵(せんじん)とともに、敵陣はますます重厚を加えてくる。

いぶかった孟達がふと後ろを見ると、翩翻(へんぽん)として千軍万馬に押しもまれている大旗が見える。その旗には「司馬懿」の三文字が、金繡(きんしゅう。金糸の縫い取りがあること)の布に黒々と縫い表されていた。

あわてて引き返したときは、孟達がひきいた兵たちはまったく隊伍(たいご)を乱す。おまけに城へ帰って開門を求めると、門扉を押し開いて飛び出したのは、申耽と申儀の両軍だった。

ここで孟達が城頭を見ると、李輔(りほ)や鄧賢(とうけん)らが雨あられと矢を放つ。

鄧賢は孟達の甥だが、先の第191話(06)で登場した鄧賢とは別人。

汚くも孟達は、また逃げ奔ったが、申耽に追いつかれ、武将の最も恥とする後ろ袈裟(げさ)の一刀を浴びて、叫絶一声、ついに馬蹄(ばてい)の下の鬼(死者)と化した。

司馬懿は降兵を収めて味方を整え、一日にして勝ちを制し、一鼓六足、堂々と新城へ入る。孟達の首は洛陽へ送られた。

司馬懿は李輔と鄧賢に新城を守らせ、申耽と申儀の軍勢を併せると、さらに長安へ急ぐ。

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第94回)では、司馬懿は李輔と鄧賢に、新城と上庸の守備を命じたとある。

(03)洛陽

孟達の首が洛陽の市にさらされ、その罪状と戦況が知れ渡るや、蜀軍の来攻におびえていた洛陽の民は、にわかな春の訪れに会ったように生色をよみがえらせた。

(04)長安

長安まで行幸していた曹叡は、司馬懿の姿を行宮(あんぐう)に見ると、玉座近くに召し寄せて優渥(ゆうあく。極めて厚い様子)なる詔を下す。

「司馬懿なるか。かつて汝(なんじ)を退けて郷里にわびしく過ごさせたのは、まったく朕の不明が敵の謀略に乗せられたものによる。いま深くそれを悔ゆ」

「汝また恨みともせず、よく魏の急に駆けつけて、しかもすでに孟達の反逆をその途に討つ。もし汝の起つなかりせば、魏の両京(洛陽と長安)は一時に破れ去ったかもしれぬ。うれしく思うぞ」

司馬懿は感泣し、こう応えてひれ伏した。

「勅命もお受けせず、早々と途上で戦端を開き、僭上(せんじょう)の罪軽からずと密かに恐懼(きょうく)しておりました。もったいない御諚(ごじょう。お言葉)を賜り、臣は身の置くところも存じませぬ」

すると、さらに曹叡が言う。

「いやいや。疾風の計、迅雷の天撃。いにしえの孫呉(そんご)にも勝るものである。兵は機を尊ぶ。以後、事の急なるときは、朕に告ぐるまでもない。よろしく卿(けい)の一存において計れ」

こうして司馬懿に前例なき破格の特権を与え、かつ金斧(きんぷ)と金鉞(きんえつ)一対を授けた。

管理人「かぶらがわ」より

司馬懿の電撃作戦の前に討ち果たされた孟達。新参者の孟達にとって、先代の曹丕(そうひ)が40歳で亡くなったことは痛すぎました。

ただ、ここで徐晃を持ってきて、こういう最期にする必要があったのか? この点はいくらか疑問が残ります。

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