劉璋(りゅうしょう)は、要請に応じてくれた劉備(りゅうび)への謝意を伝えるため涪城(ふじょう)まで出向き、城内で歓迎の宴(うたげ)を催す。
ほどなく答礼として、今度は劉備が劉璋らを招いて酒宴を開いたものの、この席で両者の重臣たちが険悪な雰囲気になる。やがて事態は一触即発の危機を迎えるが――。
第191話の展開とポイント
(01)蜀(しょく)の国境
建安(けんあん)16(211)年の冬12月、ようやく劉備は蜀へ入る。国境には、劉璋の命を受けた孟達(もうたつ)が4千騎とともに出迎えていた。
★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第60回)では、孟達は5千の軍勢とともに出迎えている。
先に法正(ほうせい)がもたらした返事により、劉備が来援を承諾したことを聞くと、劉璋は無性に喜ぶ。そして道々の地頭(じとう)や守護人に命じ、あらゆる歓待をさせた。
★ここで地頭という表現が出てきた。もしこれがわが国の鎌倉(かまくら)時代の地方官をイメージしたものなら、だいぶ雰囲気を損なっていると思う。
(02)成都(せいと)
そのうえ劉璋自身、成都を出て涪城まで出迎えると言いだし、車馬・武具・幔幕(まんまく)などを準備していた。
これを黄権(こうけん)が、見ず知らずの国から来た5万の軍中へ、自ら出られるのは危険だと諫める。
侍側にいた張松(ちょうしょう)がなじると、劉璋もともに言う。
「そうだとも。玄徳(げんとく。劉備のあざな)はわが宗族だ。ゆえにはるばる、蜀の国難を助けんと来てくれたのだ。ばか、ばかを申せ」
黄権は悲しみ、頭を地にぶつけて面に血を流しながら、なお諫言した。劉璋が袂(たもと)を振り払っても、離さじと袂をかんでいたので、彼の前歯は2本へし折れた。
こうして劉璋が城門から出ようとすると、今度は李恢(りかい)が声を上げ、車に取りすがる。
「いま黄権の諫めをお用いなく、玄徳を国にお入れあるは、求めて御身(あなた)を滅ぼすようなものですっ!」と泣かんばかりに訴えた。
劉璋は耳をふさぎ、車を進めるよう命ずる。車の輪を離さないのなら轢(ひ)き殺してでも行けと。
そこへまた、ひとりの下僕が狂わしげに訴えてくる。主人の王累(おうるい)が、どうかしてわが君のお心を翻そうと、自分の身を縄でくくり、楡橋門(ゆきょうもん)の上から逆さまに吊り下がったのだという。
(03)成都 楡橋門
門にぶら下がっていた王累は右手に剣を持ち、左手に諫言の文をつかんでいた。驚いて劉璋の車が止まると、その文を読みだす。
そして、もしお聞き入れいただけなければ、この剣をもって自ら縄を切り、地に頭を砕いて死なんと怒鳴る。
劉璋が一喝すると、王累は「惜しいかな、蜀や!」とひと声叫び、縄を切って地上の車の前に脳骨を打ち砕いた。
(04)涪城
扈従(こじゅう)の人数3万、金銀兵糧を積んだ車1千余輌(りょう)。ついに成都を去ること360里、劉璋は涪城まで迎えに出た。
(05)涪城の郊外
一方の劉備は沿道の盛んな歓迎を受けながら、すでに涪城まで100里近くまで来ていた。
ここで案内に立つ法正のところへ、張松から早馬で密書が届く。法正はそっと龐統(ほうとう)に見せ、「この時を外すなと、張松のほうから言ってよこしました。お抜かりのないように」と示し合わせた。
(06)涪城
やがて劉璋と劉備が涪城の城内で対面。両者の会見は和気あいあいたるものだった。数刻の歓宴歓語の後、劉備はあっさりと帰る。連れてきた5万の軍勢は、城外の涪江(ふこう)のほとりにあった。
劉備が帰ると、劉璋は左右の者へすぐ言った。
「どうだ。聞きしにも勝る立派な人物ではないか。王累、黄権などは人を見る明がなく、世の毀誉褒貶(きよほうへん)を信じて予を諫め、自ら死んだからいいようなものの、生きていたら予に合わせる顔もあるまい」
★ここでの劉璋の発言には疑問がある。確かに王累は楡橋門で死んでいたが、黄権は死んだわけではない。なお、井波『三国志演義(4)』(第60回)でも黄権と王累らへの言及はあるものの、劉璋が、(ふたりは)宗兄(あにうえ。劉備)の本心を知らず、みだりに疑うとは笑止千万だ、と評するにとどめている。
蜀の諸将はこれを聞き、なおさら案ずる。鄧賢(とうけん)・張任(ちょうじん)・冷苞(れいほう)などはこもごもに用心を促したが、劉璋は笑って取り合おうとしなかった。
(07)涪江のほとり 劉備の本営
龐統から劉璋の印象を聞かれた劉備は、「真実のある人だ」と、ひと言だけ答える。
龐統が言葉の裏を読み、「愚誠の人物とも言えましょう」と言うと、劉備は黙って目をしばたく。劉璋に対して憫然(びんぜん)たるものを抱いているようだった。
龐統は劉備の胸を看破し、明日、答礼の酒宴に事寄せて劉璋を招くよう決断を促す。そこへ法正もやってきて、口を極めて励ました。
建安17(212)年の春正月、今度は劉備が主人となり、劉璋を招待する。この宴会は、西蜀の開闢(かいびゃく)以来と言ってもよい盛大なものだった。
★井波『三国志演義(4)』(第61回)では、劉備と劉璋が再び涪城で酒宴を開いたとあり、このときの主人役が劉備だったのかはわからない。
やがて臨席した劉璋以下、蜀の将軍や文官たちに心からなるもてなしを尽くした。
その後、宴もたけなわに入ったころ、龐統はチラと法正に目くばせし、外へ出る。そして人なきところへ行き、声を潜め合う。手はずを再確認すると、ふたりはさりげない顔をして元の席へ戻った。
宴席は歓語笑声に満ち、主賓の劉璋の面にも満足そうな酔が赤く上っている。
すると突如、魏延(ぎえん)が立ち上がり、宴席の中ほどへ進み出て剣舞を始めた。蜀の諸将はみな顔色を変えたが、とがめるすべもない。
だがここで、従事官(じゅうじかん。従事)の張任が剣を抜いて躍り出ると、剣舞の相手役として舞い始めた。
これを見た龐統は舌打ちしながら、傍らの劉封(りゅうほう)に目くばせする。劉封も身を起こし、剣を抜き、ふたりの間へ舞って入った。
とたんに劉璋の周囲も一斉に立ち上がり、冷苞・劉璝(りゅうかい)・鄧賢などの幕将たちが、手に手に剣を抜き、舞に加わる。
驚いた劉備は、抜いた剣を高く掲げて叱った。
「無礼なり、魏延、劉封。ここは『鴻門(こうもん)の会』ではない。我ら宗親の会同に何たる殺伐を演ずるか。退がれっ、退がれっ!」
★この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『鴻門の会』は)劉邦(りゅうほう)と項羽(こうう)が天下を争っていた際、鴻門で開かれた宴会で、剣舞をしながら劉邦を暗殺しようとしたこと。『史記(しき)』項羽本紀(こううほんぎ)が出典」という。
劉璋も家臣の非礼を叱り、玄徳どのと私とは同宗の骨肉。無用な猜疑(さいぎ)をなすとは、汝(なんじ)らこそ兄弟の仲を裂くものであるとたしなめた。
しかし、この夜の宴は失敗に似てかえって成功だった。いよいよ劉璋は劉備に信頼の念を深めた。
管理人「かぶらがわ」より
黄権・李恢・王累の諫言を次々に退け、涪城まで劉備を出迎えに行く劉璋。さすがにここまで来ると、ただのお人よしでは片づけられないかも?
ちなみに史実の劉璋は末っ子で、長兄の劉範(りゅうはん)や次兄の劉誕(りゅうたん)が生きていれば、跡を継ぐことにはならなかったはずなのですよね……。
★劉範については先の第41話(05)を参照。なお、劉範と劉誕は吉川『三国志』では使われていない。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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