【姓名】 劉璋(りゅうしょう) 【あざな】 季玉(きぎょく)
【原籍】 江夏郡(こうかぐん)竟陵県(きょうりょうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第082話で初登場。
【演義】 第016回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉璋伝』あり。
成り行きで益州牧(えきしゅうぼく)を引き継ぐも、結局は劉備(りゅうび)へのつなぎ役に
父は劉焉(りゅうえん)だが、母は不詳。劉範(りゅうはん)・劉誕(りゅうたん)・劉瑁(りゅうぼう)は兄。息子の劉循(りゅうじゅん)は跡継ぎで、劉闡(りゅうせん)も同じく息子。ほかに費観(ひかん)に嫁いだ娘もいた。
194年、劉璋は劉焉が死去したため跡を継ぎ、監軍使者(かんぐんししゃ)・益州牧となった。
やがて漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)の態度に驕(おご)りが見られるようになり、劉璋の命令に従わなくなった。
205年、劉璋は張魯が命令に従わないとの理由で、その母と弟を殺害する。
劉璋と仇敵(きゅうてき)になった張魯はそのまま漢中を占領し、妖術を用いて民衆を導き、自ら師君(しくん)と号した。劉璋は龐羲(ほうぎ)らに張魯を攻めさせたものの、たびたび敗れた。
張魯の兵の多くが巴西(はせい)に集まっていたため、劉璋は龐羲を巴西太守(はせいたいしゅ)に任じ、軍勢を授けて防がせた。ところが、巴西太守となった龐羲は好き勝手に振る舞うようになり、劉璋との信頼関係に亀裂が生じた。
劉焉の時代(188~194年)、南陽(なんよう)や三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)から数万戸の人々が、難を避けようと益州へ流れ込んだ。劉焉は彼らの中から兵士を選抜し、東州兵(とうしゅうへい)と名付けた。
劉璋は優柔不断な性格で、威厳もなかったため、東州兵は、益州に古くから住んでいる民に暴行を働くようになり、恨みを買った。
劉璋は問題の解決を趙韙(ちょうい)に任せたが、彼は民の怨嗟(えんさ)に乗じて謀反を企む。そのうち趙韙は、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)に手厚い進物を贈って和睦を乞うとともに、州内の豪族と結んで挙兵した。
蜀郡(しょくぐん)・広漢(こうかん)・犍為(けんい)の3郡などは趙韙に呼応し、劉璋は成都を固守した。東州兵は趙韙を恐れ、心をひとつに劉璋を助けて戦ったので、江州(こうしゅう)で趙韙を撃破した。
しかしながら、こうした内乱はみな劉璋に判断力が欠けていて、外からの讒言(ざんげん)を聞き入れたことが原因になっていた。
208年、劉璋は、曹操(そうそう)が荊州を討伐し、すでに漢中も平定したと聞くと、陰溥(いんふ)を遣わして表敬させる。
曹操は、劉璋を振威将軍(しんいしょうぐん)に、その兄の劉瑁を平寇将軍(へいこうしょうぐん)に、それぞれ任じた。だが、このころ劉瑁は精神を病んで亡くなった。
続いて劉璋は、別駕従事(べつがじゅうじ)の張粛(ちょうしゅく)を曹操のもとへ遣わし、兵士300人と様々な品物を贈った。これに対して曹操は、張粛を広漢太守に任じた。
その後、劉璋は別駕の張松(ちょうしょう)を曹操のもとへ遣わしたが、このとき(208年)すでに曹操は荊州を平定しており、当陽(とうよう)で劉備(りゅうび)を敗走させていた。そのため使者など歯牙にもかけず、冷遇された張松は恨みを抱く。
張松が帰国したころ、曹操は赤壁(せきへき)で大敗を喫した(208年)うえ、流行病による死者が続出していた。
劉璋は張松から、曹操と絶交して劉備と結ぶよう勧められた。そこで劉璋は、法正(ほうせい)を劉備のもとへ遣わして誼(よしみ)を通じ、続いて法正と孟達(もうたつ)に数千の兵を付けて助力した。
211年、再び張松が劉璋に進言し、劉備を益州へ迎えるよう勧めた。劉璋は進言を容れ、法正を遣わして劉備に益州入りを要請した。
このとき主簿(しゅぼ)の黄権(こうけん)は、劉備を迎えた場合の利害を述べ立て、従事の王累(おうるい)は城門に逆さづりとなって諫めたが、劉璋は聞き入れなかった。
かえって劉璋は、劉備の通り道になる地域に命令を下して丁重にもてなしたので、劉備は自分の国に戻るように、州境を越えることができた。
江州の北に着いた劉備は、墊江(てんこう)の流れを使って涪(ふう)に到着。劉璋は3万余の歩騎とともに、劉備を出迎えて会見した。劉備配下の将兵は代わるがわる出かけていき、歓迎の宴会は100余日にも及んだ。
劉璋は劉備に、米20万斛(ごく)、馬1千頭、車1千乗、絹織物、錦、練り絹を援助し、張魯討伐を約束させて別れた。
翌212年、葭萌(かぼう)にいた劉備が向きを変え、南方の成都を目指して進軍を開始する。劉璋軍は劉備軍の行く先々で敗れた。
214年5月、劉備軍により、成都は数十日にわたって包囲された。このときまだ城内には3万の精兵がおり、衣食も1年分の蓄えがあったので、官民とも死を賭して戦う覚悟を固めていた。
しかし劉璋はこう述べ、城門を開いて降伏した。
「我々父子は20年以上も益州を統治してきたが、人々に恩徳を施したことはなかった。皆が3年もの間、戦いに明け暮れて草野に肌をさらし、膏(あぶら)を流して死んでいったのは私の責任だ。どうして平気でいられようか」
劉璋は、劉備の命令で南郡(なんぐん)の公安(こうあん)へ移ることになり、私財や振威将軍の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)などを返してもらった。
219年12月、孫権(そんけん)が劉備配下の関羽(かんう)を殺害して荊州を奪うと、劉璋は益州牧に任ぜられ、秭帰(しき)に駐屯することになった。その後、劉璋は秭帰で死去(時期は不明)し、息子の劉循が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
劉璋が劉焉の跡を継いだのは、益州の大官だった趙韙らの、献帝(けんてい)への上書があったからでした。彼らは、温厚な人柄が自分たちの利益になると考え、劉璋を立てることにしたのです。
しかもこれは、194年の馬騰(ばとう)らの反乱に絡んだ、長兄の劉範と次兄の劉誕の死がなければ、実現しないことでもありました。
では、もうひとりの兄である劉瑁は、なぜ後継者になれなかったのか?
これについては、劉瑁はずっと劉焉のそばに付き従っていたそうですし、本伝に「精神を病んで亡くなった」とあることからも、何らかの問題を抱えていたのかもしれません。
劉焉が、董扶(とうふ)の言った天子(てんし)の気に誘われて益州へ入り、これを劉璋が引き継ぎ、そのあと劉備が手中に収める。やはり劉備と益州には、運命的なつながりがあったのでしょう。
まぁ、その劉備の跡を継いだ劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)に降り、魏も晋(しん)に禅譲したわけですから――。劉備を、益州における最終的な勝利者と見ることはできないですね。
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