常林(じょうりん)

【姓名】 常林(じょうりん) 【あざな】 伯槐(はくかい)

【原籍】 河内郡(かだいぐん)温県(おんけん)

【生没】 ?~?年(83歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・常林伝』あり。

寒門(権勢のない家柄)出身ながら、高潔な人柄で高官を歴任

父は常伯先(じょうはくせん。名はわからず)だが、母は不詳。息子の常旹(じょうじ)は跡継ぎで、常静(じょうせい)も同じく息子。

常林が7歳のころ、父の友人らが訪ねてきて聞いた。

「伯先はおられるか? ところで、なぜお前はわれらに拝礼せぬのか?」

すると常林が答えた。

「私が頭を下げねばならないお客さまであっても、子に向かい父のあざなを呼ぶ方に、どうして拝礼する必要がありましょうか」

みな彼の言葉に感心したという。

常林は寒門の出で若いころ貧しかった。それでも自分の働きによるもの以外、他人から何かをもらおうとはしなかった。

学問が好きで、漢末(かんまつ)に太学(たいがく)の学生となったものの、やがて経典(けいてん)を携え耕作に従事する。妻は弁当を届けたが、常林は田野にあっても、賓客と対するような態度で彼女に接した。

190年、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)は、挙兵して董卓(とうたく)討伐軍に加わった。

一方で書生らを属県に遣り官民の罪科をひそかに探らせ、該当者を逮捕し取り調べ、金銭や穀物を要求して罪を購わせる。グズグズと従わない者は一族を皆殺しにし、それによって自身の威厳を高めた。

そのような中、常林の叔父が食客を鞭(むち)打ち、書生の密告を受ける。王匡は腹を立てて逮捕した。一族の者たちは王匡の要求がどのくらいになるかわからず、あわてふためく。そこで常林は王匡と同県の胡母彪(こぼひゅう)を訪ねる。

そして王匡の才能をたたえつつ、現在の争乱に打ち勝てるかは人の和にかかっており、恩徳がないことで任用に人を得なければ、今にも滅亡してしまうと述べ、この話に絡めて叔父が逮捕された件についても説明した。

胡母彪が手紙を遣って王匡を責めると、常林の叔父は釈放された。その後、常林は上党(じょうとう)へ移り、山奥で耕作をして暮らす。

このころ干害やイナゴの被害に見舞われたが、常林のところだけは豊作だった。彼は近所の者たちを呼び寄せ、1升(しょう)や1斗(と)のますで穀物を分け与えた。

のち常林は、もと河間太守(かかんたいしゅ)の陳延(ちんえん)の砦(とりで)に身を寄せる。陳氏と馮氏(ふうし)は古い氏族のうちで最高の家柄だったが、河内太守の張楊(ちょうよう)が陳延のもとにいる婦女子に目を付け、財産を奪い取ろうとした。

常林は一族をひきい、陳延らのために策を立てる。60余日にわたる包囲を受けたものの、砦を守り切ることができた。

やがて幷州刺史(へいしゅうしし)の高幹(こうかん)の上奏により「騎都尉(きとい)」に任ぜられるも、常林は辞退する。

のち幷州刺史の梁習(りょうしゅう)が、州内の名士である常林・楊俊(ようしゅん)・王淩(おうりょう)・王象(おうしょう)・荀緯(じゅんい)を推薦。曹操(そうそう)は全員を「県長(けんちょう)」として起用する。

206年、梁習は「別部司馬(べつぶしば)」のまま「幷州刺史」を代行。のち本官(正式な「幷州刺史」)となった。

このとき常林は「南和県長(なんかけんのちょう)」に任ぜられ、当地で治績を上げた。次いで「博陵太守(はくりょうのたいしゅ)」を経て「幽州刺史(ゆうしゅうのしし)」に昇進したが、やはり各地で治績を上げた。

211年1月、曹丕(そうひ)が「五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)」になると、常林は召されて「功曹(こうそう)」に任ぜられる。

同年7月、曹操が関中(かんちゅう)の韓遂(かんすい)と馬超(ばちょう)を討伐するため西征。この間に田銀(でんぎん)と蘇伯(そはく)が河間で反乱を起こし、幽州や冀州(きしゅう)は動揺した。

これを曹丕が自ら討伐しようとすると、常林は言った。

「私は『博陵太守』をお引き受けしたことがあり、また幽州にもおりましたので、賊の形勢は予測がつきます。北方の官民は平安を喜び、騒乱を嫌っており、長く教化に心服していて善を守る者も多数おります」

「田銀と蘇伯は犬や羊の集まりのようなもので、知力は小さく野心は大きく、とても害をなすことはできません。ただいま大軍は遠方にあり外部には強敵がおりますが、あなたさまは天下の押さえ。軽はずみに遠征なされば、たとえ勝たれても武威を示したと言えないでしょう」

曹丕は彼の意見に従い、代わりに将軍(しょうぐん)を遣って討伐させ、すぐに賊を討ち滅ぼした。常林は地方へ出て「平原太守(へいげんのたいしゅ)」や「魏郡東部都尉(ぎぐんとうぶとい)」を務め、中央に戻って「丞相東曹属(じょうしょうとうそうぞく)」となる。

213年10月、魏郡は東西の両部に分割され、それぞれに「都尉」の官が置かれた。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

213年5月に魏が建国されると、同年11月、常林は「尚書(しょうしょ)」に任ぜられた。

220年、曹丕が帝位に即くと、常林は「少府(しょうふ)」に昇進し「楽陽亭侯(らくようていこう)」に封ぜられる。のち「大司農(だいしのう)」に転任。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと「高陽郷侯(こうようきょうこう)」に爵位が進み、「光禄勲(こうろくくん)」や「太常(たいじょう)」を歴任した。

当時の朝廷では、常林の節操が清く気高いことから、彼を三公の位に就けたいと考える。しかし常林は重病と称して受けなかった。のち「光禄大夫(こうろくたいふ)」に任ぜられ、83歳で死去(時期は不明)する。

「驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)」の官位が追贈されて「貞侯(ていこう)」と諡(おくりな)された。葬儀は三公の礼をもって執り行われ、息子の常旹が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、司馬懿(しばい)は常林が故郷の有徳の先輩であることから、いつも彼に拝礼していたそうです。

司馬懿も河内郡温県の出身。

この様子を見たある人が忠告します。

「司馬公は高貴な御方ですよ。あなたは拝礼をやめさせるべきでしょう」

これに常林が応えます。

「司馬公は長幼の序を大切にされ、自ら若者らの模範になるおつもりなのだ。私は高貴など恐れないし、拝礼も私がどうこうできることではない」

忠告した人は辟易(へきえき)して引いたのだとか。常林の性格がうかがえる記事だと思います。一方の司馬懿には、こういう態度を見せることでの計算もあったのかどうか?

常林は享年しかわかりませんが、曹叡の時代(226~239年)に83歳で亡くなったのなら、司馬懿より25歳ほど年長だったと思われます。

司馬懿は光和(こうわ)2(179)年生まれ。

親子ほど年の離れた同郷の大先輩に拝礼するのは、いくら高位にあったとしても、それほど好印象を与えるようなものなのでしょうか?

また『三国志』(魏書・盧毓伝〈ろいくでん〉)によると、(237年2月に陳矯〈ちんきょう〉が死去してから、)しばらく欠員となっていた「司徒(しと)」について、盧毓が曹叡に適任者として推挙した人物の中に「誠実で純粋な太常の常林」の名が見えていました。なので、常林の死が237年以降であることは確かです。

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