典韋(てんい)

【姓名】 典韋(てんい) 【あざな】 ?

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)己吾県(きごけん)

【生没】 ?~197年(?歳)

【吉川】 第042話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・典韋伝』あり。

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曹操(そうそう)の忠実な護衛

父母ともに不詳。息子の典満(てんまん)は跡継ぎ。

典韋は容貌が立派なうえ、人並み外れた筋力を備え、固い節義と男気の持ち主だった。

彼は襄邑(じょうゆう)の劉氏(りゅうし)に助力し、睢陽(すいよう)の李永(りえい)とその妻を殺害。この事件により豪傑の間で名を知られることになる。

190年、張邈(ちょうばく)が反董卓(とうたく)の義兵を挙げると、典韋は兵士となり、司馬(しば)の趙寵(ちょうちょう)の配下に属す。

牙門(がもん。大将の軍門)の旗は大きく、これを持ち上げられる者はいなかったが、典韋は片手で立てることができた。趙寵は彼の才能と腕力に目を見張ったという。

後に典韋は夏侯惇(かこうとん)の配下に移り、たびたび戦功を立てて司馬に任ぜられる。

194年、曹操が濮陽(ぼくよう)の呂布(りょふ)を攻めた際、敵の別営が(濮陽の)西4、50里に置かれていた。

曹操はこの別営を夜襲し、明け方ごろに撃破したものの、帰る途中で呂布の援軍と遭遇。

呂布は三方面から揺さぶりをかけつつ、自ら戦闘に加わり、早朝から日が傾くころまで激しくもみ合う。

そこで曹操が敵陣を陥れる勇士を募ったところ、典韋は真っ先に名乗りを上げ、同じく募集に応じた数十人を指揮することになった。みな衣服と鎧(よろい)を重ね着し、盾は捨て長い矛と戟(げき)を持つ。

そのうち西の方面が危急となったため、典韋は進んで敵にぶつかっていく。弓や弩(ど)が乱射され、雨のごとく矢が降り注いだ。

典韋は目を開けていられなくなり、味方の者に言った。

「敵が10歩のところまで来たら知らせてくれ」

10歩に近づいたとの声を聞くと、また典韋は言った。

「5歩のところで知らせてくれ」

こうして敵が間近に迫ると、典韋は10余本の戟を手に大声を上げて立ちあがる。

典韋の投げた戟を受けて倒れない者はなく、ついに呂布の軍勢が退却。ようやく曹操も引き揚げることができた。

曹操は典韋を都尉(とい)に任じてそば近くに置き、数百の親衛兵をひきいさせ、天幕の周りの警固を任せた。

典韋自身に武勇があるうえ、彼のひきいる親衛兵は選抜された者だったので、戦闘のたびに先鋒となり敵陣を陥れる。やがて典韋は校尉(こうい)に昇進した。

197年、曹操は荊州(けいしゅう)討伐に向かい、宛(えん)において張繡(ちょうしゅう)を降す。

大いに喜んだ曹操は大宴を催し、張繡らに酒をついで回ったが、このとき典韋は後ろに立ち、大斧(おおおの)を上げて相手を見つめた。張繡は宴が終わるまで、顔を上げて見る勇気もなかったという。

それから10日ほどして張繡が背き、曹操の軍営を急襲する。曹操は出て戦ったものの敗れ、軽装のまま馬に乗って逃げた。

このとき典韋が営門で防戦しており、敵は侵入できない。結局、散りぢりになって別の営門から入る。

だが、そこには典韋の部下が10余人いて、みな必死で戦い、ひとりで10人を相手にした。

典韋は長戟を手に力戦するも、左右の部下は死傷してほぼいなくなる。彼は数十か所の傷を負いながら、なおも短い武器を持って白兵戦を続けた。

敵が組みつくと、典韋は両脇に挟んで打ち殺したので、ほかの者は思い切って進もうとしない。

そこで典韋は再び敵に向かって突進する。数人を討ち取ったものの傷口が開き、目を怒らせ、大声で罵倒しながら息絶えた。

そのころ曹操は退却して舞陰(ぶいん)にいたが、典韋の死を聞くと涙を流す。人を募って彼の遺体を取り返すと、自ら葬儀に臨んで泣き、その柩(ひつぎ)を襄邑へ送らせる。

さらに典韋の息子の典満を郎中(ろうちゅう)に取り立てた。

その後、曹操は典韋が戦死した地を通るたび、中牢(ちゅうろう。羊と豕〈し。ブタ〉)を捧げて祭ったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、典韋は極めて忠義心に篤く、慎み深かったということです。

昼はずっと曹操のそばに侍立し、夜は天幕の近くで眠ったため、自分の寝所に帰ることはまれだったとも。

そして彼は酒食を好み、人の倍の量を飲み食いしたといい、曹操の御前で食事を賜ると大変な飲みっぷりで、左右から勧め、給仕を数人に増やしてやっと間に合ったのだとか。

曹操はこの様子に、見事なものだと感心したという。

また、典韋は好んで大きな双戟(そうげき。ふた股の戟)と薙刀(なぎなた)を用いたということで、軍中では「帳下(曹操の幕下)の壮士に典君あり。一双戟80斤を提ぐ」とはやしたのだと。

任務が任務だけにという気もしますが、典韋の死は忠烈そのものでした。曹操の嘆きも当然でしょう。

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