許慈(きょじ) ※あざなは仁篤(じんとく)

【姓名】 許慈(きょじ) 【あざな】 仁篤(じんとく)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第080回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・許慈伝』あり。

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同僚と非難し合う様子を、劉備(りゅうび)が役者に再現させて皮肉る

父母ともに不詳。許勛(きょくん)という息子がいた。

許慈は劉熙(りゅうき)に師事して鄭玄(ていげん。じょうげん)の学問をよくし、『易(えき)』『尚書(しょうしょ)』「三礼(さんらい)」『毛詩(もうし)』『論語(ろんご)』を修める。

三礼は『周礼(しゅらい)』『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』のこと。

そして建安(けんあん)年間(196~220年)、許慈は許靖(きょせい)らとともに、交州(こうしゅう)から益州(えきしゅう)へ入った

214年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降すと、衰退していた学問の復興を図る。このとき許慈は胡潜(こせん)とともに博士(はくし)に任ぜられ、孟光(もうこう)や来敏(らいびん)らと古典の整理に取り組んだ。

そのころは様々な事柄が草創期にあり、多くの異論が飛び交う。許慈と胡潜は互いの言い分を抑え込もうとし、声や顔色を変えて非難し合った。自分の手元にない書物を貸し借りしたりもせず、時には鞭(むち)を振るって相手を脅かす始末。

劉備は、ふたりの様子を見て哀れに思い、群臣を集めて大宴会を催した際、役者に許慈と胡潜の格好をさせ、彼らが争うさまを演じさせることで反省を促したという。

胡潜は先に没したものの、許慈は劉禅(りゅうぜん)の時代(223~263年)に昇進を重ね、大長秋(だいちょうしゅう)まで昇って死去(時期は不明)した。

息子の許勛が父の学業を受け継ぎ、また博士になった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引かれた孫盛(そんせい)の言葉がきついものでした。「蜀は人士が少なかったため、許慈や胡潜らが(『蜀書』に)載録されたのである」と。

陳寿(ちんじゅ)は『蜀書』の制作にかなり気を遣ったのでしょうけど、この許慈については、確かに無理して加えた感じがしますね。

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