朱拠(しゅきょ) ※あざなは子範(しはん)

【姓名】 朱拠(しゅきょ) 【あざな】 子範(しはん)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 194~250年(57歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・朱拠伝』あり。

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正論を主張して孫権(そんけん)に遠ざけられ、報われぬ最期

父母ともに不詳。息子の朱熊(しゅゆう)は跡継ぎで、朱損(しゅそん)も同じく息子。娘の朱氏(しゅし)は孫休(そんきゅう)の正室。妻は孫権の娘の孫魯育(そんろいく。朱公主〈しゅこうしゅ〉)。

朱拠は優れた容貌と腕力を備えており、人との議論にも長けていた。

222年、朱拠は召されて五官郎中(ごかんろうちゅう)に任ぜられ、侍御史(じぎょし)の職務にあたる。

このころ選曹尚書(せんそうしょうしょ)の曁豔(きえん)は、貪欲な汚職官吏を一掃しようと考えていた。

朱拠は曁豔に意見を述べ、まだ天下が定まっていない現状では、功を立てさせることで過失を補わせ、いくらかの欠点があっても起用し続けるべきだとし、清潔な人物を登用することでそうでない者を発奮させるのがよく、もし性急に(清潔でない者を)降格させたりしたら、後に災いが起こる恐れがあるとも指摘した。

しかし曁豔は聞き入れず、やがて讒言(ざんげん)に遭って自殺に追い込まれた(224年のこと)。

孫権は部将の力量に不満を感ずるようになり、怒ったりため息をついたりし、かつて活躍した呂蒙(りょもう。219年没)や張温(ちょうおん。230年没)のことを思い起こしていた。

呂蒙はわかるが、230年に死去した張温の名が、なぜここで出てくるのかよくわからず。続く建業(けんぎょう)への遷都後の記事との兼ね合いも微妙な感じ。

そのうち朱拠が文武の才を兼ね備えており、彼になら呂蒙らの跡を継がせられると考えるようになる。そこで朱拠は建義校尉(けんぎこうい)に任ぜられ、兵をひきいて湖熟(こじゅく)に駐屯することになった。

229年、孫権が建業に都を遷(うつ)すと、朱拠は召し還されて孫魯育を娶(めと)り、左将軍(さしょうぐん)に任ぜられたうえ、雲陽侯(うんようこう)に封ぜられた。

236年、孫権が大銭(だいせん)の鋳造を命じ、この大銭ひとつが500銭の価値を持つものと定める。

後に朱拠の部曲(ぶきょく。私兵)が受け取りに行った3万緡(びん。1緡は銭さしに通した1千枚の銭)を、工人の王遂(おうすい)がだまし取るという事件が起こった。

典校(てんこう)の呂壱(りょいつ)は朱拠の横領を疑い、部曲を拷問にかけて打ち殺してしまう。朱拠は無実の罪で死ぬことになった部曲を哀れみ、手厚く葬った。

すると呂壱が上表し、部曲が朱拠のために黙秘し続けて死んだから、朱拠は手厚く葬ったのだと述べる。

これを受けて孫権が何度も問責したので、朱拠は弁明できないまま、草の上に座って処罰を待った。

数か月後、典軍吏(てんぐんり)の劉助(りゅうじょ)が事の真相をつかみ、王遂が銭をだまし取ったのだと上言する。

孫権は、朱拠を陥れた呂壱の罪を厳しく問いただし、劉助には褒美として100万銭を下賜した。

246年、朱拠は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に昇進。

皇太子の孫和(そんか)と魯王(ろおう)の孫霸(そんは)との間で確執が起こると、朱拠は孫和を擁護し、正しい道理を守ろうとしたため新都郡丞(しんとぐんじょう)に左遷された。

250年、朱拠が新都に到着する前、中書令(ちゅうしょれい)の孫弘(そんこう)が讒言(ざんげん)を繰り返し、偽の詔書を使って朱拠に自殺を命ずる。このとき57歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、朱拠は謙虚な態度で士人に接し、財産を軽んじて施しを好んだため、俸禄や下賜品に恵まれていながら、暮らし向きは楽ではなかったそうです。

驃騎将軍といえば、国の柱のひとりなのに、主君にまともな意見を述べただけで左遷とは――。晩年の孫権の自滅ぶりはひどすぎます。

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