【姓名】 張臶(ちょうせん) 【あざな】 子明(しめい)
【原籍】 鉅鹿郡(きょろくぐん)
【生没】 136~240年(105歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・管寧伝(かんねいでん)』に付された「張臶伝」あり。
105歳まで生きた在野の学者
父母ともに不詳。
張臶は若くして太学(たいがく)に学び、讖緯(しんい。前兆や災異などの神秘的な事象の解釈)の学と経典(けいてん)の学とを兼ね備えた。
郷里に帰った後、袁紹(えんしょう)から何度も召されたが応じず、上党(じょうとう)へ移住する。
上党でも、幷州牧(へいしゅうぼく)の高幹(こうかん)から楽平県令(らくへいけんれい)に任じられたが応じず、今度は常山(じょうざん)へ行って隠れ住む。張臶の門弟は数百人もおり、みな任県(じんけん)に移った。
208年、曹操(そうそう)が丞相(じょうしょう)となり張臶を招聘(しょうへい)したものの、やはり応じず。
太和(たいわ)年間(227~233年)、曹叡(そうえい)は詔(みことのり)を下し、まだ世に出ていない学者で、災厄を除き、変異を正常に戻せる人物を求めた。
このとき広平郡(こうへいぐん)は、しきりに張臶を推挙して出発を促したが、彼は老い(90歳代)と病を理由に行かなかった。
240年、張臶の家の門の陰に戴鵀(カッコウ)が巣を作る。
すると張臶は門人に言った。
「戴鵀は陽鳥なのに、門の陰に巣を作った。これは凶兆じゃ」
そして琴を手に歌い、2編の詩を作ると10日後に亡くなった。このとき105歳だった。
管理人「かぶらがわ」より
この時代も、学問を修めた者がみな官途に就くわけではありませんでした。張臶は具体的な事績についての記事が少ないため、コメントしにくいですけど――。
彼のような在野の学者も正史で採り上げられるあたり、こういった生き方も一定以上の評価を得ていたということですよね。
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