胡昭(こしょう) ※あざなは孔明(こうめい)

【姓名】 胡昭(こしょう) 【あざな】 孔明(こうめい)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)

【生没】 162~250年(89歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・管寧伝(かんねいでん)』に付された「胡昭伝」あり。

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実は司馬懿(しばい)の命の恩人

父母ともに不詳。胡纂(こさん)という息子がいた。

胡昭は初め冀州(きしゅう)に避難したが、袁紹(えんしょう)の召命を辞退して郷里へ帰る。

曹操(そうそう)は196年に司空(しくう)、さらに208年に丞相(じょうしょう)となると、しきりに胡昭を招聘(しょうへい)した。

胡昭は曹操のもとへ赴き、自分は一介の野人なので、軍事や国事の役には立たないと言い、忠誠の気持ちを捧げるだけで去らせてほしいと願い出た。

曹操が願いを聞き届けると、胡昭は陸渾(りくこん)の山中に移住。

そして自ら農耕に従事し、生きることを楽しみ、経籍を読むことを喜びとする。村人たちはそのような彼を敬愛したという。

218年、陸渾県長(りくこんけんちょう)の張固(ちょうこ)は命を受け、成年男性を徴発して漢中(かんちゅう)へ送り出さねばならなくなる。民は遠隔地での軍役を嫌がり、みな動揺の色を見せた。

平民の孫狼(そんろう)は不安に付け込み、反乱を起こして県の主簿(しゅぼ)を殺害する。

そこで張固は10余人の部下を従え、胡昭の住む地を頼りに残された民を呼び集め、混乱を収拾しようとした。

翌219年、孫狼らは南方にいた劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)に降り、官印と武器の支給を受け、再び乱暴を働きながら陸渾の南の長楽亭(ちょうらくてい)までやってくる。

しかし、胡昭に対しては敬意を抱いていたため、彼の住む村を襲わないよう仲間内で誓約した。そうしたことから、伊水(いすい)一帯の地は襲撃を受ける心配がなかった。

天下が安定した後、胡昭は宜陽(ぎよう)へ移住する。

後に正始(せいし)年間(240~249年)になり、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の趙儼(ちょうげん)、尚書(しょうしょ)の黄休(こうきゅう)と郭彝(かくい)、散騎常侍(さんきじょうじ)の荀顗(じゅんぎ)と鍾毓(しょういく)、太僕(たいぼく)の庾嶷(ゆぎょく)、弘農太守(こうのうたいしゅ)の何楨(かてい)らは、代わるがわる胡昭を推薦した。

250年、曹芳(そうほう)は公用車を遣わして特別に召し寄せようとしたが、ちょうど胡昭は亡くなってしまう。このとき89歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると「胡昭は隷書が巧みで、鍾繇(しょうよう)・邯鄲淳(かんたんじゅん)・衛覬(えいき)・韋誕(いたん)と並ぶ名声があった」ということです。

さらに本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く皇甫謐(こうほひつ)の『高士伝(こうしでん)』には、司馬懿にまつわる話がありました。

「まだ司馬懿が平民だったころ、胡昭とは旧知の間柄だった」

「同郡の周生(しゅうせい)らが司馬懿の殺害を計画していると聞くと、胡昭は徒歩で険峻(けんしゅん)を越え、崤(こう)・澠(べん)(いずれも河南〈かなん〉にある)の地で待ち受ける」

「胡昭は引き留めたが、周生は承知しない。だが、胡昭が涙ながらに誠意を示すと、周生は彼の義心に感動して計画を取りやめた。そこでふたりは棗(ナツメ)の木を切り、誓約を交わして別れる」

「胡昭は司馬懿に対して陰徳があったものの、このことを口外せず、誰も知らなかった。それでも胡昭の誠実な行いは郷里で有名だった」のだと。

高士の風格を感じさせる話ですね……。

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