【姓名】 呂乂(りょがい) 【あざな】 季陽(きよう)
【原籍】 南陽郡(なんようぐん)
【生没】 ?~251年(?歳)
【吉川】 第204話で初登場。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・呂乂伝』あり。
地方在任中は治績第一と評価されるも、中央入り後は名声ふるわず
父は呂常(りょじょう)だが、母は不詳。呂辰(りょしん)と呂雅(りょが)という息子がいた。
188年、呂常は、益州牧(えきしゅうぼく)の劉焉(りゅうえん)の赴任に同行して蜀へ行ったものの、(その後、劉焉が独立をもくろみ、)道路が不通となったため帰郷できなくなる。
ほどなく呂乂は幼くして孤児になったが、読書や音楽に親しんで成長したという。
★父の死後、呂乂が蜀で育ったのか、郷里の南陽で育ったのかイマイチわからず。
214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降した後、呂乂は塩府校尉(えんぷこうい)の王連(おうれん)に招かれて典曹都尉(てんそうとい)となる。
後に昇進して新都県令(しんとけんれい)や緜竹県令(めんちくけんれい)を務めたが、慈悲の心で民衆に臨んだため称賛を受け、州内第一の政治と評価された。やがて巴西太守(はせいたいしゅ)に昇進。
227年以降、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)は連年軍勢を繰り出し、諸郡から人員や物資を調達したが、これらは不足することが多かった。
このとき呂乂も5千の兵士を募って諸葛亮のもとへ遣ったが、皆をいたわってよく諭したため、彼の手配した兵士の中から逃亡者は出なかったという。
後に呂乂は漢中太守(かんちゅうたいしゅ)に転じて督農(とくのう。督農校尉)を兼ね、前線へ兵糧を送り続けた。
234年、諸葛亮が死去した後、呂乂は広漢太守(こうかんたいしゅ)や蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)を務める。
蜀郡は人口が多いうえ、諸葛亮を失った混乱を受けて逃亡兵も紛れ込み、他人に成り済まして悪事を働く事例が頻発した。
呂乂が着任すると、こうしたことを防止するための対策を打ち出して指導に取り組む。その結果、数年のうちに、正規の戸籍から脱漏していることを自白した者が1万余人にも上ったという。
後に呂乂は朝廷に入って尚書(しょうしょ)となり、董允(とういん。246年没)に代わって尚書令に昇進。彼は多くの業務を滞らせることがなく、役所の門で待たされる客がいないほどだった。
こうして呂乂は内外の官職を歴任したが、身を修めて倹約に努め、謙虚で口数が少なく、政務についても簡明で煩わしさがなかったので、清潔かつ有能との評判を得る。
しかし、彼は法を守ることに非常に厳格で、法を万能と考える俗吏を好んで任用した。そのため大官の地位まで昇りながらも、郡県を治めていたころより名声は低くなったという。
251年、呂乂は死去した。
管理人「かぶらがわ」より
地方官として実績を上げ、中央へ召し還される例は多いですが、呂乂については評価が難しいと思います。法の運用がいい加減ではいけませんけど、厳格すぎてもいけないと。
諸葛亮の存命中に、厳格な法が皆に受け入れられていたのは、彼自身が極端なまでに公平無私を貫いたからなのでしょうね。
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