【姓名】 黄蓋(こうがい) 【あざな】 公覆(こうふく)
【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん)泉陵県(せんりょうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第027話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・黄蓋伝』あり。
赤壁(せきへき)の戦いで大活躍
父母ともに不詳。黄柄(こうへい)という息子がいた。
初め黄蓋は郡の役人となり、孝廉(こうれん)に挙げられて三公の役所から招かれたものの応じなかった。
189年、孫堅(そんけん)が義兵を起こすと配下に加わり、南方では山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)を撃破し、北方では董卓(とうたく)を敗走させる。
黄蓋は功により別部司馬(べつぶしば)に任ぜられた。
192年(もしくは191年)、孫堅が戦死すると黄蓋は孫策(そんさく)に従い、200年に孫策が急死すると、今度は孫権(そんけん)に付き従う。
そして各地を転戦し、自ら先頭に立って諸城の攻略を進めた。山越が従わなかったり、盗賊の被害に苦しむ県があると、いつも黄蓋が起用されて統治にあたった。
こうして石城(せきじょう)・春穀(しゅんこく)・尋陽(じんよう)など9つの県で長官を務めたが、いずれの任地でも平穏をもたらす。
やがて丹楊都尉(たんようとい)に昇進すると、かの地の豪族を抑えて弱者を保護し、山越を手なずけた。
黄蓋は威厳のある容貌をしていたが、配下の者への気遣いも忘れなかったため、いざ討伐というときには、みな先を争ってよく戦ったという。
208年、周瑜(しゅうゆ)に付き従い、赤壁で曹操(そうそう)を大破する。
この戦いでは、黄蓋が献策した火計が勝利の決め手となったため、功により武鋒中郎将(ぶほうちゅうろうしょう)に任ぜられた。
後に武陵(ぶりょう)の異民族が反乱を起こすと、黄蓋が武陵太守(ぶりょうたいしゅ)に起用される。
黄蓋は、郡兵が500人しかいないことを知ると打って出ず、反乱軍を城内に誘い込んだうえで数百人を斬る。
残りの者は自分の集落に戻ったが、黄蓋はそのうちの首謀者だけを誅殺し、ほかの者はみな許した。
春から夏の間に郡内の反乱はすべて平定され、遠く巴(は)・醴(れい)・由(ゆう)・誕(たん)などの部族の有力者たちも、手厚い礼をもって目通りを求めるようになる。
後に益陽(えきよう)が山越の攻撃を受けると、黄蓋が討伐にあたって偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられたが、在官のまま病死(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、黄蓋は南陽太守(なんようたいしゅ)を務めた黄子廉(こうしれん)の子孫で、祖父の時代に零陵へ移住したということです。
黄蓋は幼いころに父を亡くし、たいへんな苦労を重ねたといいますが、志は大きく、貧しい境遇にあっても努力を怠らず、薪(たきぎ)を拾う合間に上表文の書き方を学び、兵法を研究していたともありました。
また別に本伝には、黄蓋は決断が速く、事を引き延ばすことがなかったとあるので、反乱の討伐といった任務に向いていたのでしょうね。
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