駱統(らくとう)

【姓名】 駱統(らくとう) 【あざな】 公緒(こうしょ)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)烏傷県(うしょうけん)

【生没】 193~228年(36歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・駱統伝』あり。

忠孝両全の将軍(しょうぐん)

父は駱俊(らくしゅん)だが、母は不詳(駱俊の側室だったという)。駱秀(らくしゅう)という息子がいた。

駱俊は「陳国相(ちんこくのしょう)」まで昇ったが、のちに皇帝(こうてい)を僭称(せんしょう)した袁術(えんじゅつ)に暗殺されてしまう。

200年、駱統が8歳の時、母(生母)が再婚し華歆(かきん)の側室となったため、彼は父の食客らとともに会稽へ帰り、父の正室だった母(義母)によく仕えた。

このころ飢饉(ききん)に見舞われ、郷里の人々も遠方から流れてきた人々も厳しい暮らしを強いられる。

駱統は彼らのことを考え、自分も十分な食事を取らずにいたが、事情を知った姉が母に話をしたところ、母は困窮している人々に食糧を分け与えることを許した。そのため駱統の名が知られるようになったという。

212年、駱統が20歳の時、孫権(そんけん)は「烏程国相(うていこくのしょう)」として試用する。駱統は立派な治績を上げたため、召し還されて「功曹(こうそう)・行騎都尉(こうきとい)」に任ぜられ、孫輔(そんほ)の娘を娶った。

孫輔は、孫堅(そんけん)の同母兄である孫羌(そんきょう)の息子。孫権の従兄にあたる。

駱統は孫権の施策の不十分な点を補うよう努め、何か見聞きしたら翌朝を待たず、夜中でも上言した。また、賢者や臣下との付き合い方を説き、孫権に容れられたこともあった。

のち駱統は地方へ出て「建忠中郎将(けんちゅうちゅうろうしょう)」となり、3千の弓兵を預かる。217年?に淩統(りょうとう)が死去すると、その配下にあった軍勢の指揮も引き継いだ。

駱統は、頻繁な軍役や疫病の流行により戸数が減少している現状を憂い、上疏文を奉ったが、これは孫権の心を大いに動かすものだった。

222年、駱統は陸遜(りくそん)に付き従って宜都(ぎと)で蜀軍(しょくぐん)を撃破し、「偏将軍(へんしょうぐん)」に昇進。

この年、魏(ぎ)の曹仁(そうじん)が濡須(じゅしゅ)に侵攻。翌223年には部将の常雕(じょうちょう)らに中州への攻撃を命じたが、駱統は厳圭(げんけい)らと協力して防戦にあたり魏軍を撃破した。

駱統は功により「新陽亭侯(しんようていこう)」に封ぜられ、のち「濡須督(じゅしゅのとく)」となった。

228年、駱統は36歳で死去した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、たびたび駱統は適切な処置について上陳を行いましたが、これらは合わせて数十回にも及んだということです。その意見はみな立派なものだったとありますが、陳寿(ちんじゅ)は「それらの文章は長いので、ここにすべて載せることはしない」としつつ、一例を挙げていました。

これは募兵にあたる役人の腐敗を指摘した上書で、孫権と駱統が意見交換を重ねた結果、彼の建議が実施に移されたというもの。

駱統の上書には学者のような理屈っぽさが感じられず、熱い思いを真っすぐに述べている印象を受けます。彼の忠心が本物だったからこそ、孫権も聞き入れることが多かったのでしょう。

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