甘寧(かんねい)

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【姓名】 甘寧(かんねい) 【あざな】 興霸(こうは)

【原籍】 巴郡(はぐん)臨江県(りんこうけん)

【生没】 ?~?年

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・甘寧伝』あり。

無頼の頭目から将軍(しょうぐん)にまで昇る

父母ともに不詳。甘瓌(かんかい)という息子がいた。

甘寧は若いころから気力にあふれ、遊俠(ゆうきょう)を好み、無頼の若者を集め頭目となった。それは大規模なもので、弓や弩(ど)を持ち歩き、水牛の尾を付けた旗指物を背にし、腰には鈴を帯びたため、人々は鈴の音を聞くと甘寧の一味が来たことを悟ったという。

たとえ相手が地方長官であろうと、手厚いもてなしを受ければ仲良くしたが、そうでなければ手下を遣り財物を奪ってしまう。この地域で強盗や傷害といった事件が起こると、甘寧が摘発や処罰にあたり、こうした振る舞いを20余年にわたって続けた。

のちにそうした暮らしをやめていくらか先賢の書物に触れ、劉表(りゅうひょう)を頼ろうと考え南陽(なんよう)へ移る。しかし劉表には取り立ててもらえず、そのうち劉表配下の黄祖(こうそ)の食客となった。

203年、黄祖が孫権(そんけん)の攻撃を受け敗れた際、甘寧は殿軍(しんがり)となって孫権配下の淩操(りょうそう)を射殺し、黄祖の危難を救う。

ところが、黄祖は命の恩人である甘寧を重用しなかったため、甘寧は蘇飛(そひ)の助力により「邾県長(ちゅけんのちょう)」として赴任した後、東方の孫権のもとに身を寄せる。

周瑜(しゅうゆ)や呂蒙(りょもう)の口添えもあったので、孫権は甘寧を厚遇し、旧臣と分け隔てなく扱うことにした。

208年、甘寧の献策が容れられ、孫権軍は西進して黄祖を討ち果たすと、その配下の軍勢を編入。甘寧は兵士を授かり当口(とうこう)に駐屯する。

この年、甘寧は周瑜に付き従い、烏林(うりん)で曹操軍(そうそうぐん)を大破(「赤壁〈せきへき〉の戦い」)し、引き続き南郡(なんぐん)の曹仁(そうじん)を攻めた。

ここで甘寧の献策が容れられ、自ら別動部隊をひきい夷陵(いりょう)を攻め取る。このとき配下の兵士は数百人にすぎず、夷陵の降兵を加えても1千人ほどだった。

そのうち南郡の曹仁が5、6千人を繰り出し、夷陵の甘寧を包囲する。甘寧らは長期間の攻囲を受け、城外の高楼からも多数の矢が射込まれたため、みな恐れおののく。それでも甘寧自身は普段どおり談笑し、落ち着き払っていたという。

やがて甘寧の使者より事態を聞き知ると、周瑜は呂蒙の計を用いて夷陵に駆けつけ、諸将とともに敵軍の包囲を解いた。

のち甘寧は魯粛(ろしゅく)に付き従って益陽(えきよう)を守り、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)の侵攻を防ぐ。功により「西陵太守(せいりょうのたいしゅ)」に任ぜられ、陽新(ようしん)と下雉(かち)の両県を封邑(ほうゆう)として賜った。

214年、甘寧は皖(かん)攻めで「升城督(しょうじょうとく。突撃隊長)」を務め、自ら城壁をよじ登り、曹操配下の廬江太守(ろこうたいしゅ)の朱光(しゅこう)を捕らえる。呂蒙に次ぐ手柄を立てたと評価され「折衝将軍(せっしょうしょうぐん)」に任ぜられた。

翌215年、孫権の合肥(ごうひ)遠征に参加。このとき疫病が流行したため自軍は引き揚げ、孫権の車を守る1千余人の虎士(こし。近衛兵)に加え、呂蒙・蔣欽(しょうきん)・淩統(りょうとう)・甘寧が逍遥津(しょうようしん)の北に残っていた。

そこへ曹操配下の張遼(ちょうりょう)の急襲を受けるも、甘寧らの命がけの働きにより孫権は危機を脱することができた。

翌216年?、曹操が濡須(じゅしゅ)へ進軍すると甘寧は「前部督(ぜんぶとく)」となり、敵の先鋒の軍営を夜襲して戦果を上げ、孫権から2千人の兵士を加えられた。

この記事の時期的な前後関係がイマイチつかめず。原文では、215年の孫権の合肥遠征の前に置かれていたが……。

のち甘寧が死去(時期は不明)すると、孫権は彼の死を痛惜したという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、甘寧は粗暴でよく人を殺したものの、開放的な一面もあり、将来の見通しが利いたそうです。そして財物を軽んじ有能な人物を敬い、勇敢な兵士をよく養ったことから、みな彼の命令には喜んで従ったのだとか。

また、黄祖のもとを離れるにあたり便宜を図ってくれた蘇飛の恩を忘れず。208年に黄祖が討たれた折、孫権に蘇飛の命乞いをして許しを得ていました。没年を含め謎が残りますけど、度胸のある親分肌の人物だったことはうかがえますね。

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